川中島の戦い・主要人物

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本庄美作守慶秀(ほんじょう・みまさかのかみ・よしひで)

[生年・没年不詳]
本庄実乃・実仍・新左衛門尉・宗緩
栃尾城時代から謙信を補佐。直江景綱、大熊朝秀らとともに奉行職を務め、政権の中枢を司る

越後古志郡・栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)主。天文12年(1543)、林泉寺(りんせんじ)を出て還俗した謙信(当時は景虎)は、兄晴景より栃尾城に派遣され、越後平定を支援。そのころ城代を務めていたのが慶秀であり、以来、側近として若き謙信を補佐した。やがて晴景に代わり、実力ある謙信を擁立しようとする動きが起こると、これを支持。天文17年(1548)、謙信が長尾の家督を相続して、春日山入城を果たしたのちは、春日山城に移り、長尾家譜代の家臣直江景綱、守護上杉家の重臣大熊朝秀らとともに奉行職を務め、謙信政権の中枢を担った。

天文23年(1554)頃より、守護上杉家の旧家臣と擁立派との政争が起こり、旧家臣団に属していた大熊朝秀と対立。慶秀と直江景綱側が勝利を得、敗れた大熊朝秀は越後を去り、甲斐の武田信玄に仕えた。

慶秀の子秀綱は、天正6年(1578)上杉家の家督争い「御館(おたて)の乱」※で、小田原北条氏の景虎派を支持し、敗れて会津に逃れたという。

※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。