川中島の戦い・主要人物

武藤喜兵衛昌幸(むとう・きへえ・まさゆき)

[天文16年(1547)~慶長16年(1611)]
武藤喜兵衛・三郎左衛門尉、真田昌幸・喜兵衛・安房守
※武田二十四将の一人でもある。
信濃先方衆・真田幸隆の三男。 父に勝るとも劣らぬ武略家として名を馳せる

東・北信濃侵攻で砥石[といし]城、尼厳[あまかざり]城を攻略した智将・真田幸隆[さなだゆきたか]の三男。幼名は源五郎。第1次川中島の戦いで村上義清の塩田城を攻略し、東信濃を支配下に治めた天文22年(1553)、父・幸隆が小県[ちいさがた]の旧領に戻る代償として、7歳で武田家の人質となり、信玄の近習として出仕。その後信玄の母方の武藤家に養子に入り、武藤喜兵衛と名乗る。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いで初陣を飾り、以降旗本として活躍する。

信玄の死後、勝頼に仕えるが、天正3年(1575)織田・徳川の連合軍に大敗した長篠の戦いで二人の兄、信綱[のぶつな]・昌輝[まさてる]が戦死し、昌幸が真田家を継いだ。勝頼の信頼も厚く、西上野(群馬県西部)の備えを任されて小県の真田郷に戻り、松尾城・砥石城を拠点に上州(群馬県)経営を担った。父に似て軍略の才に優れ、天正8年(1580)には上野沼田[ぬまた]城(群馬県沼田市)を無血で謀奪し、沼田地域を支配した。

天下の情勢を読み取り、乱世を生き抜いた名族・真田家の意地

天正10年(1582)、武田家滅亡後は、上田城(上田市)を築城し、北条氏、徳川氏、上杉氏を転変する。天正13年(1585)には昌幸と子・信幸(信之)が上田城にこもり、徳川家康の大軍を迎撃し大勝。また慶長4年(1599)徳川主力の秀忠[ひでただ]の大軍を防ぎ関ヶ原の合戦を遅らせ、天下の徳川軍に2度圧勝したことは後世の語り種となっている。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後は没落し、高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ配流。慶長16年(1611)山麓の九度山[くどやま](和歌山県伊都郡九度山町)で病没した。享年63歳。

その間、長男・信之[のぶゆき]を東軍徳川方に、次男・幸村[ゆきむら]を西軍豊臣方につけ、いずれにしても家名を存続させる手段をとっていたが、結果、東軍についた信之が徳川松代十万石の藩祖となって真田氏は受け継がれた。  昌幸の墓は、上田市真田の長谷寺[ちょうこくじ]にあり、幸隆夫妻の墓とともに並んで建っている。