川中島の戦い・主要人物

原隼人佑昌胤(はら・はやとのすけ・まさたね)

[大永6年(1526)?~天正3年(1575)]
※生年には所説あり
原隼人・昌胤・正種・昌勝・胤長・昌国・隼人助・隼人佐・隼人正
※武田二十四将の一人でもある。
武田随一の陣取りの巧者。 信玄の側近として様々な重要任務を遂行した譜代家老

武田の譜代家老衆として信虎信玄の2代に仕えた加賀守昌俊[かがのかみまさとし]の嫡子。原氏は、一条庄高畑郷(甲府市高畑)の一帯を領有していたとされる。天文18年(1549)、父・昌俊が死ぬと家督を継ぎ、120騎持ちの侍大将になって隼人佑を称した。親子ともども陣取りの名手であったといわれ、地理に明るく、合戦場となる地勢・地形を見極めて、有利に戦うための場所を探し出す卓越した才能を発揮した。信玄も陣取りの采配を一任し、合戦の際には各部隊の戦況をとりまとめ本陣に報告する陣場奉行を務めたという。

また一方では、西上野国衆ほか他地域の国衆など各所からの要望を信玄や関係役所に取り次ぐ役務「奏者[そうじゃ]」の任にあたったり、治水事業を指揮したり、のちには山県昌景[やまがたまさかげ]とともに最高指揮官「職[しき]」を務めたことなども伝えられ、いずれも武田の参謀として重要な要職についていたと考えられる。ちなみに永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いにも出陣し、信玄本陣の脇備隊左翼を守ったとされている。

信玄の死後は勝頼に仕えるが、天正3年(1575)織田・徳川連合軍との長篠の戦いで左翼山県隊の横に布陣し、銃弾を浴びて戦死する。嫡子・昌栄[まさひで]が家督を継ぎ、天正8年(1580)には末弟貞胤[さだたね]が継承。三代(三人)にわたって原隼人を名乗った。

下総千葉氏一族の“鬼美濃”原美濃守は、別系の原氏。同族には中間頭(ちゅうげんがしら)の原大隅守[はらおおすみのかみ]がいる。