諸角豊後守の墓(両角豊後守の墓)

諸角豊後守は、信虎、信玄の2代にわたって武田家に仕えた重臣。両角・室住・諸住とも記し、諸角虎定[とらさだ]、昌清[まさきよ]ともいう。

永禄4年(1561)の川中島の大激戦では、81歳という最古参で戦場に赴くが、副将の典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]が討たれると、激怒にかられ、わずかな手勢で敵陣に突入し、死に者狂いの奮戦をしたが、討ち死にしてしまう。一度は敵の手に渡った諸角豊後守の首は、同心によって奪い戻され、のち戦死した場所に葬られたという。

地元の人々には「もろずみさん」の愛称で親しまれ、墓のある塔之腰[とうのこし](稲里町下氷鉋)には「諸角講」がある。講中の人々によって墓は維持管理され、春と秋には集落をあげての慰霊祭が行われている。

岡澤先生の史跡解説

豊後守の墓について、松代藩家老鎌原貫忠[かんばら・つらただ]は、文化6年(1809)松代町柴の阿弥陀堂境内に重修した山本勘助の墓参の帰途、寺尾村高畑の勘助と陣ヶ瀬の諸角の古塚を訪れた。このとき、諸角の墓について貫忠は、「小島田より下氷鉋村に行く道の左に古塚があって、その上に五輪石がある。これを諸角の墓といっている。いずれが本物の諸角の墓か、詳らかではない」と『朝陽館漫筆』に記している。

諸角豊後守の墓は、山梨県甲斐市竜王の豊後守開基の慈照寺にもある。この慈照寺の豊後守の墓へ塔之腰の諸角講の人たちは墓参している。
千曲市倉科に諸角豊後守の子孫という家が10軒ほどある。この人たちは、毎年彼岸には塔之腰の豊後守の墓に卒塔婆を立て、墓参りした後、武田典厩信繁の墓のある典厩寺で、豊後守の法会を営み、一族の絆を深めている。塔ノ腰の人たちの豊後守の墓に対する思いやりが、このように子孫の方々の墓参へとつながっているといえよう。

諸角豊後守によせる諸角講の人々の心情は、俳人松尾芭蕉の「さびの心」に通じるものがある。芭蕉が奥の細道を遊吟したおり、芭蕉に随行した曾良[そら]が、源義経が自害した平泉の高館[たかだて]跡に乱れ咲く卯の花を見て、殉死した老臣増尾兼房[ますお・かねふさ]が胸中によみがえり、

 卯の花や兼房見ゆる白髪かな

と詠んでいる。また、芭蕉は小松市太田神社に奉納されていた甲を見て、平家の恩義のため、白髪を黒く染めて倶梨迦羅峠[くりからとうげ]に出陣し、加賀篠原で討死した斉藤実盛[さいとう・さねもり]を哀惜して、

 むざんやな甲の下のきりぎりす

と詠んでいる。この二人の俳人が、兼房や実盛に寄せた情は、塔之腰の人々の豊後守に寄せる情と重なる心情であろう。

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