小田切駿河守の墓(円光寺)

円光寺

長野市川中島町今里にある。
小田切氏は、吉窪(よしくぼ)城を居城とし、裾花川をはさんで葛山(かつらやま)城に隣接する安茂里小市(あもり・こいち)地区に勢力を誇った有力土豪であった。

弘治3年(1557)、小田切駿河守幸長[おたぎりするがのかみゆきなが]は、城主落合氏とともに葛山城に籠城するが、馬場信房らの猛攻により、2月25日、落城とともに討ち死にした。武田方・室賀兵部の家来・山岸清兵衛がその首を討ち取ったという。

川中島町今里の円光寺には、小田切駿河守の墓がある。円光寺は、建久元年(1190)開創(かいそう)の浄土宗寺院。墓は本堂の前、浄土宗三上人大遠忌記念塔の横に建っている。

岡澤先生の史跡解説

円光寺中興開山の正庭[しょうてい]は、小田切駿河守幸長の長男である民部少輔の次男で、正賢[まさたか]という。父の民部は、文禄元年(1592)豊臣秀吉朝鮮出兵の時、村上義清の嫡子国清に従って渡鮮し、戦死した。正賢は父民部と祖父駿河守の菩提のために仏門に入った。のち正庭は円光寺の住職となって駿河守夫妻の墓を建立した。当寺には小田切氏守護の弁才天が奉納されている。

小田切氏は滋野(しげの)の氏族で、佐久郡小田切郷(佐久市臼田 切原)に分地し、地名を姓にした。後に更級(さらしな)・水内の犀川辺りに移り住み、吉窪城を築き、小市(小市城/こいちじょう。長野市安茂里)・今里内後(いまさとうちご/長野市川中島町上屋敷)・今井於下(いまいおしも/長野市川中島町下屋敷)に館を構えて、この地方を領した。

小田切幸長は、村上義清に属した。天文22年(1553)から始まる川中島の戦いでは、吉窪城、小市館に拠って武田信玄に抗した。弘治3年(1557)2月、葛山(かつらやま)城主 落合備中守(おちあい・びっちゅうのかみ)救援のため葛山に籠城した。同月15日、牧之島城主の馬場美濃守信春が率いる武田軍8千の猛攻と、火攻めにあって落城した。幸長は室賀兵部大輔(むろがひょうぶたいふ)の家来、山岸清兵衛に首を討たれた。

そのとき武田晴信(信玄)が3月20日づけで室賀兵部に与えた感状に、「去る十五日信州水内郡葛山城において、その方の家来清兵衛が頸壱つ、小田切駿河守を討ち捕ったことの戦功に感じ候。ますます忠信に励むよう仰せ含められ申し候。」とある。

葛山落城の時「首一つ」と晴信が家臣に与えた感状は『信濃史料』の中に14通みえるが、氏名が明記されているのは小田切駿河守だけである。小田切駿河守の旗下に、青木刑部・朝日右近・長嶺大蔵・久保寺大学・平林内蔵允・布施太左衛門らの勇士がいた。彼らは「小田切7騎」と呼ばれ、氷鉋斗女郷(ひがのとめごう/長野市稲里町下氷鉋)の在地武士である。

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