弘治元年(1555)、犀川[さいがわ]をはさんで甲越両軍が対陣した第2次川中島の戦いで、武田信玄の本陣となった大堀館は、町田兵庫正之[まちだひょうごまさゆき]の居館とされている。
町田兵庫正之は、天文22年(1553)に武田に降り、永禄4年(1561)、安曇郡の小岩嶽城[こいわだけじょう](一説には水内郡割ヶ嶽城)の攻略に際して軍功をあげ、高井郡福島郷(須坂市)に領地を与えられたという。子の光直とともに、信玄・勝頼の二代にわたって仕え、武田氏滅亡後は大塚の地に帰農した。
大堀館跡(更北中学校敷地内)近くの長徳寺[ちょうとくじ]境内には、町田兵庫正之の墓がある。
岡澤先生の史跡解説
町田正之[まちだまさゆき]を祖とする町田姓は、大塚区に30軒ほどある。近隣区の綱島・青木島区を含めると40軒と、川中島地方では集団姓としてきわだっている。この町田氏は、大塚に帰農した町田正之の末裔という。
正之は、小岩嶽[こいわだけ]城攻略のとき、城将の山崎七郎を討ち取った軍功によって、駿州有渡郡大内郷[すんしゅう・うどぐん・おおうちごう](現・静岡県清水市大内) に300貫、高井郡福島村(現・須坂市福島)に200貫の地を武田信玄より与えられた(『町田家文書』)。武田家滅亡後は上杉景勝に仕えたが、景勝の会津移封に際し、大塚に帰農した。その後、居館(大堀館/大塚館)は焼失したため、宗家町田氏は北接の地に屋敷を新たに構え、館跡は畑となっていた。
この様子について、享和3年(1803)10月6日、大塚村長徳寺に立ち寄った松代藩家老鎌原貫忠[かんばらつらただ](桐山)は、大堀館跡の様子について、随筆『朝陽館漫筆』に、
「大塚は町田氏の旧領である。村中に屋敷跡があって、四方に土居がある。土居には樹木が生い茂っている。四面に堀があって、土居の中は南北約40m・東西約32mほどあるが、今は畑になって、傍らに下記の法名を刻んだ一基の古碑がある。
平安院殿見誉圓月居士 天正五丁丑 町田兵庫正之
貞運院殿心誉清圓大姉 天正六戊寅
町田の後胤[こういん]は農家となって代々善左衛門と称し、余が采地(領地)に居住する。今の善左衛門は、彼の父善左衛門の時に金子千両を藩に献上して、賄[まかない]格となり、十二人扶持となる」
と記している。このように正之の末裔は、富農として繁栄していた。
大堀館跡(大塚館跡)が更北中学の校地として造成され、正之夫妻のこの墓は長徳寺の墓地に移された。
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