読みは「あんようじ」。永禄10年(1567)に浄土宗総本山・増上寺10世感誉存貞(かんよぞんてい)が開山となって綱島に創建された寺院。このあたりを本拠とした綱島氏の開基といわれる。
天明7年(1787)の洪水によって流失し、現在の大塚の地に移された。大堀館跡隣にあり、釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)や当麻曼陀羅(たいままんだら)のほか、武田信玄奉納と伝えられる守護仏不動明王像が安置されている。
岡澤先生の史跡解説
『日本三代実録』※1 の貞観8年(866) 2月2日の条に「信濃国伊奈郡寂光寺、筑摩郡錦織寺、更級郡安養寺、埴科郡屋代寺、佐久郡妙楽寺をもって並びにこれを定額に預らしむ」とある更級郡安養寺は、この寺と寺伝は記している。
「定額寺」は延暦2年(783) 以降、朝廷で一定数を限って定めた官寺である。『三代実録』記載の「更級郡安養寺」の所在地については、東筑摩郡坂井村の安養寺説、千曲市桑原にあったと伝えられる八幡の八幡宮別当寺の安養寺説などがあって、その所在地は定かでない(更級埴科地方誌)。
永禄6年(1563)、武田信玄が守り本尊としていた懐中仏、「不動明王像」を梵天浦沖※2 にあった安養寺に預け、敵味方なく戦没者の霊を弔うべしと、寺僧に託して甲府に引き上げた。この縁によって武田信玄を開基と伝えている。なお、安養寺の不動明王像のほかに、川中島町戸部の讃楽寺の「矢除けの甲仏」、篠ノ井柳沢の耕心庵の「青面金剛像」、若穂保科の広徳寺の「弁才天像」などが、武田信玄によって奉納されたと伝えている。
※1)『日本書紀』『続日本紀』など天皇の勅命によって奈良・平安時代に編纂された古代日本の歴史書「六国史(りっこくし)」の最後にあたる第6の書。858年~887年までを扱っている。
※2)梵天(ぼんてん)社があるところからきた地名。「沖」のつく地籍名は、長野市更北地区では、青木島町大塚区・小島田町・真島町真島区など。「沖」とは、集落と集落とが水田によって隔てられているところから、海に浮かんだ島のようにみえる集落形態からついたものと思われる。
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