川中島の戦い・主要人物

山県三郎兵衛尉昌景(やまがた・さぶろう・ひょうえのじょう・まさかげ)

[享禄3年(1530)?~天正3年(1575)]
山県昌景・山形昌景・飯富源四郎
※武田二十四将の一人でもある。
「職」の座につき信玄の補佐役として活躍、三方ヶ原の戦いで徳川家康をも怖れさせた猛将

「武田四名臣」の一人。譜代家老衆として信玄・勝頼の二代に仕えた。飯富虎昌[おぶ・とらまさ]の実弟で飯富源四郎[おぶ・げんしろう]といった。信玄の近習小姓から伊那攻めにて初陣。のち侍大将に抜擢されて、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]亡きあとの最高指揮官「職[しき]」をつとめ、信玄を補佐した。信玄の嫡子義信が謀反の罪で幽閉された事件で兄虎昌が誅された後、山県姓を名のる。

短期間で城を攻略することを得意とし、敵を恐れぬ猛将であったといわれる。元亀3年(1572)三方ヶ原[みかたがはら]の合戦では、徳川本陣に正面から攻撃し、「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ」と家康に言わしめた。天正3年(1575)、長篠の合戦にて、鉄砲の玉を受けても落馬せず、采配を口にくわえたまま戦死したという。

『甲越信戦録』に描かれた勇士

第4次川中島合戦では、本隊鶴翼[かくよく]の陣の左翼を守り、『甲越信戦録』にも、乱戦で、「四尺三寸の大太刀真っ甲に差しかざし……真っ向縦割り、輪切り、縦切り、膝折、腰車と切り伏せ、切り伏せる」と山県昌景の勇士ぶりを描く。続けて、敵に取り囲まれた武田太郎義信に気づいた昌景は、ちょうどそのとき相対していた上杉軍の鬼小島弥太郎[おに・こじま・やたろう]に「主君のため、この勝負、待ってくれぬか」と頼みこみ、義信の難を救った。そこで昌景は「鬼とはだれが名づけたことぞ」と弥太郎の忠義精神を讃えるシーンが綴られている。