川中島の戦い・主要人物

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板垣駿河守信方(いたがき・するがのかみ・のぶかた)

[生年不詳~天文17年(1548)]
板垣信方・信形
※武田二十四将の一人でもある。
晴信(信玄)の守り役をつとめた宿将。信虎追放の中心的役割をなす

信虎信玄の2代に仕えた宿将。駿河守を称した。板垣氏は、武田氏の祖・武田信義[たけだ・のぶよし]の次男・板垣三郎兼信[いたがき・さぶろう・かねのぶ]を祖とする名門甲斐源氏の流れをくむ。御親族衆として信虎の代から家中の重臣として活躍。晴信(信玄)の守り役をつとめたといわれ、一時若い晴信が遊事にふけった際には、自ら詩作を習いそれを諫めた。天文10年(1541)、信虎追放時には、晴信の苦渋を理解し、中心的な役割を演じた。

その後も晴信から全幅の信頼を受け、甘利虎泰[あまり・とらやす]とともに最高職「職[しき]」の地位を得、軍政・民政の中枢を担った。天文12年(1543)、攻略した諏訪氏の上原城に入り、郡代として諏訪・伊那地方を統治。また上杉憲政が送り込んだ関東管領軍を佐久の小田井原で撃破するなど、信濃攻略の主力として活躍した。

山本勘助の仕官に尽力し、由布姫・勝頼の後ろ盾となるが、上田原の合戦で討ち死に

『甲越信戦録』には「邪なことが嫌いな廉直義節の勇士」で、義に外れた者は成敗するので憎む人間も多かった。信方をそれゆえに信頼する晴信は、その高邁さを案じたという。天文17年(1548)村上義清との上田原の合戦で先鋒をつとめ奮迅の末、討ち死にした。

板垣信方は、家中の反対する中、山本勘助の才幹を見込み、晴信に推挙した人物とされる。『風林火山』の物語によると、「武田一の合戦上手」だが「苦戦になると弱い」と勘助は信方を評するが、家中に心許せる者が少ない勘助と由布姫にとっては、唯一後ろ盾となってくれる頼もしい武将であった。