川中島の戦い・主要人物

武田四郎勝頼(たけだ・しろう・かつより)

[天文15年(1546)~天正10年(1582)]
武田勝頼
諏訪家の名跡を継ぎ、武田家最後の後継者となった由布姫の子

武田家20代当主。武田信玄の四男で武田家最後の後継者。母は由布姫(諏訪頼重の息女・諏訪御料人)。諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪四郎勝頼と名乗り、永禄5年(1562)伊那高遠城主となる。

信玄は反発する嫡男・義信[よしのぶ]との不和から、勝頼を偏愛した。元亀4年(1573)、信玄が死去すると勝頼が跡を継ぎ、甲斐の躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]に入る。

長篠の合戦で惨敗。家臣の相次ぐ離反を契機に滅亡の道を歩む

勇猛な武将として名をあげ、徳川方の高天神城[たかてんじんじょう]を落とすなど武田の版図(領土)を広げたが、天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗。多くの将兵を失い大打撃を受けた甲州軍は、家臣らの内紛も深めながら、弱体化の一途をたどっていった。

そして天正10年(1582年)、織田・徳川・北条連合軍の甲州攻めに遭い、追い詰められた勝頼は、天目山にて子の信勝とともに自害する。享年37歳。これによって名門甲斐武田氏は滅びた。

勝頼に天下取りの夢を託した山本勘助

『風林火山』のなかで、勝頼の将来を由布姫に託された山本勘助は、永禄4年(1561)上杉謙信との川中島決戦で初陣をはやる勝頼をまだ時期ではないと思いとどまらせる。そのまま勘助は、勝頼初陣の雄姿を眼にすることなく、川中島にたおれていった。