川中島の戦い・主要人物

多田淡路守満頼(ただ・あわじのかみ・みつより)

[文亀元年(1501)?~永禄6年(1563)]
多田淡路守・満頼・三八・昌澄・昌利
※武田二十四将の一人でもある。
夜襲戦の妙手として抜きんでた才を発揮。 火車鬼退治の武勇伝も残る武田きっての強者

多田氏は清和源氏源満仲[みなもとみつなか]の後裔とされる。美濃国(岐阜県南部)出身の満頼は、甲斐に移って信虎に召し抱えられ、足軽大将となって信玄にも仕えた。夜襲戦にかけては右に出る者がいなかったといわれ、『甲陽軍鑑』の中では「多田三八」の名で登場。小荒間の合戦(天文9年/1540)の話には、村上義清方の侍大将清野[きよの]氏率いる3,500の軍勢に夜襲をかけ、村上軍を敗走に追い込み、172の首を討ち取ったことが描かれている。虚空蔵山[こくぞうさん]城(坂城町南条・上田市)の在番中、地獄の妖婆「火車鬼」を退治したという伝説を持ち、合戦数は29回、身に27カ所の刀傷を負い、29通の感状を授かったという豪傑。信虎・信玄が誇る自慢の部下であったといわれる。

永禄4年(1561)第4次川中島の戦いには、嫡男の新蔵[しんぞう](久蔵)が足軽隊を率いて参戦。満頼はその2年後の永禄6年(1563)、病没した。