川中島の戦い・主要人物

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真田弾正忠幸隆(さなだ・だんじょうのじょう※・ゆきたか)

[永正10年(1513)~天正2年(1574)]
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
真田幸隆・幸綱・一徳斎
※武田二十四将の一人でもある。
武田きっての知将、信玄の信濃攻略に大きな功績を残す

真田氏は、東信濃に勢力を張った滋野[しげの]一族・海野[うんの]氏の流れをくむ豪族。幸隆は松尾城主・真田頼昌[さなだ・よりまさ]の子で、海野棟綱[うんの・むねつな]の孫にあたるといわれる。

天文10年(1541)、真田父子は海野一族とともに戦った海野平合戦で、武田信虎・村上義清[むらかみ・よしきよ]・諏訪頼重[すわ・よりしげ]らの連合軍に東信濃を追われ、上州の箕輪城主・長野業政[ながの・なりまさ]のもとに身を寄せた。

やがて晴信(信玄)が甲斐の領主になると、幸隆は武田に出仕。信玄に臣従後は信濃先方衆の筆頭格として信濃攻略の尖兵を担う。内部工作のよる謀略戦に抜きんでた才を発揮し、佐久攻めでは望月一族を帰服、さらには難攻不落とされた村上義清の砥石城[といしじょう]を一晩で乗っ取るなど、武田の知将の名をほしいままにした。

上田原の戦い、砥石崩れで、無敵を誇る武田軍を二度も破った村上義清であったが、幸隆の砥石城乗っ取りに「武田に戦いで勝ちながら、謀略に負けた」と口惜しがったという。

昌幸・幸村・信之……真田一族中興の祖

本領真田郷を取り戻した幸隆は、弘治2年(1556)、川中島平の掌握をはやる信玄の督促に応じ、東条[ひがしじょう]氏の尼巌城[あまかざりじょう]を見事攻略。北信濃進出の重要な布石をなした。またこの頃には、幸隆は信玄、山本勘助とともに出家し、「一徳斎[いっとくさい]」と号するようになる。

第4次川中島の戦いでは、嫡子・信綱[のぶつな]とともに出陣し、高坂弾正忠昌信飯富虎昌らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]部隊を率いた。川中島平定後は、上野国岩櫃城[いわびつじょう]を攻略し、城代となって対上杉・上州攻略の中核任務を担った。天正2年(1574)、信玄の後を追うようにして病没。享年62歳。

子の信綱、昌輝[まさてる]とも武田勝頼にも仕えたが、長篠の戦い(1575)で戦死。真田家は昌幸[まさゆき]が継ぎ、幸村[ゆきむら]と信之[のぶゆき]に受け継がれる。上田市真田の長谷寺[ちょうこくじ]には幸隆夫妻と昌幸の墓が建ち、長野市松代の長国寺[ちょうこくじ]にも幸隆ら真田一族の供養塔が建っている。