川中島の戦い・主要人物

三枝勘解由左衛門尉守友(さえぐさ・かげゆさえもんのじょう・もりとも)

[天文7年(1538)?~天正3年(1575)]
三枝守友・宗四郎昌貞・勘解由・左衛門尉、山県善右衛門
※武田二十四将の一人でもある。
花沢城攻めで一番槍の功名をあげた若獅子

甲斐源氏の勢力伸長により断絶となった名族三枝[さえぐさ]氏を、武田信虎が同族の石原氏に名跡を継がせた。信虎時代は守綱[もりつな]、信玄には子の虎吉[とらよし]とその嫡男だった守友が仕えた。

守友は元服後、使い番を経て奥近習の一人として信玄に出仕。曾根昌世武藤喜兵衛(真田昌幸)らとともに信玄から特に目をかけられた側近だった。川中島の戦いでは旗本組に属し、永禄7年(1564)頃には侍大将に抜擢されたという。

永禄12年(1569)の小田原攻め・三増[みませ]峠の戦いなどで武勲をたて、永禄13年(1570)の駿河の花沢[はなざわ]城(静岡県焼津市高崎)攻めでは一番槍の功名で感状を受けている。また高天神[たかてんじん]城(静岡県掛川市下土方)の攻略(元亀2年/1571)や、さらに三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)でも獅子奮迅の活躍をみせ、そんな守友をひいきにした山県昌景は、名刀吉光の太刀を授けて山県姓を名乗らせたという。

天正3年(1575)、織田・徳川連合軍との長篠の合戦では、武田信実[たけだのぶざね](信玄の弟・信虎7男)の副将として鳶ヶ巣山[とびがすやま/鳶ノ巣山とも]砦に陣取るが奇襲に遭い、討ち死にした。