川中島の戦い・主要人物

穴山玄蕃頭信君(あなやま・げんばのかみ・のぶきみ)

[天文10年(1541)~天正10年(1582)]
穴山梅雪・信君・信良・左衛門大夫・伊豆守・陸奥守・梅雪斎不白
※武田二十四将の一人でもある。
信玄の姉を母に、妹を妻にもつ武田親族衆の筆頭

穴山伊豆守信友[あなやまいずのかみのぶとも]の嫡男。穴山氏は、武田と同じ甲斐源氏の流れをくみ、武田宗家の族臣として逸見筋[へみすじ]穴山(山梨県韮崎市)の地を領し、穴山氏を称したのが始まりという。

母親は信玄の姉・南松院[なんしょういん]、妻は信玄の次女・見性院[けんしょういん]。信玄にとっては血のつながる甥にあたる。信玄・勝頼の2代にわたって仕え、親族衆筆頭として軍事・外交にわたり武田家の中枢をなした。川中島の戦い、三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)、長篠の戦い(天正3年/1575)などに参陣し、主に本陣の守衛を担った。

武田家再興のため、勝頼を見かぎり“裏切り者”の烙印を甘んじた

駿河進出では、天正3年(1575)長篠の戦いで戦死した山県昌景[やまがたまさかげ]の後を受けて、江尻[えじり]城(静岡県静岡市清水区)城将となり、東の北条氏、西の徳川氏に備えた。

天正10年(1582)武田家滅亡時には、義兄弟である勝頼の戦列から離れて、江尻城にて徳川・織田両氏との外交に務めるが、最後は徳川家康に降った。この離反は、武田家の血筋を残し、再興を図るための決断だったともいわれる。しかし、同年6月、本能寺の変の混乱により浜松へ帰国途中、一揆の一団によって横死した。享年42歳。風趣を好み、学識も深い武人だったといわれる。