川中島の戦い・主要人物

直江山城守兼続(なおえ・やましろのかみ・かねつぐ)

[永禄3年(1560)?~元和5年(1619)]
兼續、数直
川中島の戦いで小荷駄隊を指揮。 合戦中は丹波島の渡しを死守した『甲越信戦録』の山城守兼続

甲越信戦録』に登場する「直江山城守兼続」は、木曾義仲四天王の内、樋口次郎兼光の末葉とされ、上杉の四天王の一人に数えられる。

永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、小荷駄(こにだ/食料、弾薬や馬糧などを運ぶための専門部隊のこと)奉行として丹波島に留まり、上杉謙信の本隊を側面から支えた。9月10日早暁、八幡原の武田本陣に猛虎のように攻めかかった上杉軍だったが、武田別働隊が駆けつけ、形勢は逆転。上杉勢は犀川を渡り善光寺方面へと北走する。丹波島の渡し付近の直江山城守は、200騎ばかりで高坂・甘利[あまり]の武田二勢を引き受け、味方が川を渡るのを援護した。やがて日が暮れ、大将の謙信が越後に逃れたことがわかると、直江山城守は犀川を渡り、旭山のふもとの諏訪平に後詰めの陣を張って、甘粕近江守[あまかすおうみのかみ]とともに甲州勢の攻撃に備えた。

犀川を挟んで布陣する直江・甘粕の上杉軍を叩かんと出撃命令を請う高坂弾正忠に対し、信玄は「敗戦して混乱した戦況にもかかわらず、あっぱれの勇士。その上、直江が後詰めに控えているのであれば、そのままに捨てておけ」と追撃を押しとどめた。3日後、直江・甘粕近江守隊は、陣を払い、越後に引き上げた。(『甲越信戦録』より)

上杉三代の重臣・直江大和守実綱亡き後、 非凡な才を見込まれた樋口与六が直江の名跡を継ぐ

上杉謙信の代、多くの史料によると兼続はまだ幼少であったことから、一般的には義父の大和守実綱[やまとのかみ さねつな](のち景綱)が、川中島の戦いに参戦したとされている。

大和守実綱は、与板城(新潟県長岡市与板町)を本拠に、長尾為景、晴景、上杉謙信の三代に仕えた重臣であった。上杉家における政治面での中枢を担い、領地経営や外交など奉行職で活躍したが、天正5年(1577)70歳(伝)で没した。

実綱には子がいなかったため、上杉景勝(謙信の養子)の命で、天正9年(1581)、樋口惣右衛門(与三左ェ門、与七郎とも)兼豊の子・与六が直江の名跡を継ぎ、山城守兼続[かねつぐ]と称した。兼続は早くから景勝の近習として仕え、その非凡な才を見込まれていた。

兜の前立ては「愛」の一文字。 文武兼備の名宰相、上杉米沢藩の基礎を築く

景勝の腹心となった兼続は、内政・外交・軍事にわたって才腕を発揮し、のち豊臣秀吉にも重用された。景勝の会津移封に伴い、米沢城(山形県米沢市)に入城。慶長6年(1601)、徳川家康が天下を治め、景勝が米沢30万石に減封された後も、景勝を一貫して支え続けた。城下では、農業や商工業の振興、水利事業、鉱山の採掘などに注力し、出羽米沢藩の基礎を築き上げた立役者といわれる。逸話では景勝が会津120万石から米沢30万石に減封の折、兼続は3万石を与えられたが、それを諸将に配分し、残りの1万石の私領をさらに二つに分け家中に与えたと伝わる。文学・学問を好み、まさに文武兼備の名宰相であった。

元和5年(1619)江戸鱗(うろこ)屋敷で死去。享年60歳(伝)。生涯仲睦まじく寄り添った年上の妻・お船(せん)の方とともに、山形県米沢市の春日山林泉寺[かすがやまりんせんじ]に墓所がある。また、兼続は兜の前立て(兜の前面につける飾り)に、愛染明王[あいぜんみょうおう]・愛宕権現[あたごごんげん]を表す「愛」の字をつけていたといわれ、上杉神社稽照殿(けいしょうでん・山形県米沢市)にその兜が収蔵されている。

甲越信戦録』では、上杉家を代表する名家老・兼続の英傑を讃え、謙信の四天王として川中島の戦いに登場させたとも考えられる。