川中島の戦い・主要人物

柿崎和泉守景家(かきざき・いずみのかみ・かげいえ)

[永正10年(1513)?~天正2年(1574)?]
弥次郎
上杉軍の先鋒隊将をつとめた剛勇無双の猛将

柿崎氏は、鎌倉時代に白河荘(しらかわのしょう・新潟県阿賀野市周辺を支配した大見安田[おおみやすだ]氏の一族といわれる。戦国時代、長尾為景[ためかげ]に従属して戦功をたて、和泉守を称した。為景没落後は、柿崎城(別名木崎城・新潟県上越市柿崎区)を本拠地に、上杉謙信の側近として奉行職をつとめた。戦場では、他に並ぶ者のない越後随一の勇猛果敢な武人と称され、その剛将ぶりは、遠く中国地方にまで聞こえたといわれる。

川中島の戦いで山本勘助を討ち取った柿崎隊

永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、朝霧に包まれた八幡原の信玄本陣・典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]隊に先陣をきって突撃し、猛攻を加えた。武田軍は苦戦を強いられ、本陣を死守しようと躍り出た山本勘助を討ち取ったのは、柿崎の隊であった。(『甲越信戦録』より)

伝えられるところによると、景家は、天正2年(1574)に没し、子の晴家[はるいえ]は織田信長との内通を疑われて天正5年(1577)誅殺。天正6年(1578)の御館(おたて)の乱※以降、景勝側についた晴家の遺児・憲家[のりいえ]が柿崎家を再興したという。

柿崎家の菩提寺である楞厳寺(りょうごんじ・新潟県上越市柿崎区)には、景家と上杉謙信の幼少時代の師であった天室光育[てんしつ・こういく]の墓がある。

※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。