川中島の戦い・主要人物

原美濃守虎胤(はら・みののかみ・とらたね)

[明応6年(1497)?~永禄7年(1564)]
原虎胤・虎種、清岩
※武田二十四将の一人でもある。
後利用を考えた城攻めで、筑摩の要害・平瀬城を攻略

下総千葉氏の一族・原氏の出自で、永正期(1504-1521)に父・能登守友胤[のとのかみともたね]に伴われ、房州臼井(千葉県佐倉市)から甲斐に来て、信虎信玄の2代に仕えた。

信玄が家督を継承した頃、足軽大将となり、板垣信方[いたがきのぶかた]・甘利虎泰[あまりとらやす]・飯富虎昌[おぶとらまさ]氏らとともに武田の中枢を担い、信濃経略の主力として活躍。効率的な城攻めに長け、奪い取った後も補修せずに利用できる攻略法を得意としていた。天文20年(1551)には、信濃守護小笠原長時[おがさわらながとき]の属城だった平瀬[ひらせ]城(松本市島内)を攻略し、城将を務めた。

“甲斐の鬼美濃”と恐れられ、隣国にその名を轟かせた猛将

「10の兵をもって100の敵に当たる」を信条とし、合戦にのぞむこと38回、全身に受けた傷は53ヶ所を数え、隣国に“甲斐の鬼美濃”と恐れられた猛将だが、情けには厚い武人であったという。のちに馬場信春は虎胤の“鬼美濃”の武名にあやかり、「馬場美濃守信春」と称している。

また、『甲陽軍鑑』によると、虎胤は浄土宗と日蓮宗との法論(仏法の教義に関する議論)を禁じた法度(『甲州法度之次第』)を破った罪で、一時は甲州を追放され相模の北条氏に仕えたが、翌年には帰参したエピソードもある。

信玄が出家の際には、山本勘助真田幸隆小幡虎盛とともに剃髪し、清岩[せいがん]と号した。永禄2年(1559)信越国境の割ヶ嶽[わりがたけ]城(上水内郡信濃町)攻略のとき、銃弾を受け負傷。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでも傷が癒えずに出陣できず、永禄7年(1564)に没したという。

甲州系の原隼人佑昌胤[はらはやとのすけまさたね]とは別系の原氏だが、『甲越信戦録』巻之三の六「海野平対陣のこと」および七「原美濃守由緒」には、原美濃守虎胤が「信俊(弥五郎)」の名で登場し、同一門として語られている。