川中島の戦い・主要人物
原美濃守虎胤(はら・みののかみ・とらたね)
[明応6年(1497)?~永禄7年(1564)]
原虎胤・虎種、清岩
※武田二十四将の一人でもある。
※武田二十四将の一人でもある。
- 後利用を考えた城攻めで、筑摩の要害・平瀬城を攻略
- “甲斐の鬼美濃”と恐れられ、隣国にその名を轟かせた猛将
「10の兵をもって100の敵に当たる」を信条とし、合戦にのぞむこと38回、全身に受けた傷は53ヶ所を数え、隣国に“甲斐の鬼美濃”と恐れられた猛将だが、情けには厚い武人であったという。のちに馬場信春は虎胤の“鬼美濃”の武名にあやかり、「馬場美濃守信春」と称している。
また、『甲陽軍鑑』によると、虎胤は浄土宗と日蓮宗との法論(仏法の教義に関する議論)を禁じた法度(『甲州法度之次第』)を破った罪で、一時は甲州を追放され相模の北条氏に仕えたが、翌年には帰参したエピソードもある。
信玄が出家の際には、山本勘助・真田幸隆・小幡虎盛とともに剃髪し、清岩[せいがん]と号した。永禄2年(1559)信越国境の割ヶ嶽[わりがたけ]城(上水内郡信濃町)攻略のとき、銃弾を受け負傷。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでも傷が癒えずに出陣できず、永禄7年(1564)に没したという。
甲州系の原隼人佑昌胤[はらはやとのすけまさたね]とは別系の原氏だが、『甲越信戦録』巻之三の六「海野平対陣のこと」および七「原美濃守由緒」には、原美濃守虎胤が「信俊(弥五郎)」の名で登場し、同一門として語られている。