川中島の戦い・主要人物
甘粕近江守景持(あまかす・おうみのかみ・かげもち)
- 謙信秘蔵の侍大将の筆頭。川中島の戦いで武田啄木鳥隊の渡河を阻む
上杉謙信・景勝に仕えた重臣で、謙信秘蔵の侍大将の筆頭。上杉四天王の一人。率いる部隊の強さは、柿崎景家[かきざきかげいえ]とともに上杉軍団の双璧を成した。
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、山本勘助の啄木鳥(きつつき)戦法を見破り、千曲川を渡った上杉1万3千の将兵のうち、1千余人の兵は甘粕近江守指揮の下、戌ヶ瀬(いぬがせ)・十二ヶ瀬(じゅうにかせ)に留まり、武田別働隊に備えた。9月10日朝、甘粕隊は少数の部隊で、八幡原へと加勢に急ぐ武田別働隊(妻女山攻撃隊)1万2千の行く手を阻み、自身は半月のような大長刀を取り延ばし、武田勢を圧倒した。
戦いの終盤、上杉軍が撤退する際に直江山城守とともに殿(しんがり)をつとめ、すべての兵が犀川を渡った後、市村(いちむら)に陣をしき、後詰めに備えた。(『甲越信戦録』より)
- 武田の『甲陽軍鑑』に「近隣他国に誉めざる者なし」と雄姿を讃えられる
武田方の『甲陽軍鑑』にも、甘粕近江守の永禄4年(1561)の活躍は描かれており、大混戦の中、犀川へと1千余りの軍勢を乱すことなく率いる采配の見事さに、武田兵の多くは「謙信が指揮しているのではないか」と疑うほどであった。その様を近隣他国で誉めない者はいなかった、と高く称讃している。
甘粕氏の出自については諸説あり、清和源氏・甘粕野次広忠[あまかす(の)のじひろただ]春日山林泉寺を祖とし、桝形城(新潟県長岡市越路)を居城とする越後の豪族であったともいわれる。景持は、天正6年(1578)謙信が没した後、跡目相続争いの御館(おたて)の乱で勝利した上杉景勝に仕えた。天正10年(1582)には三条城将(新潟県三条市)となり、恩賞をめぐって景勝に背いた新発田重家[しばた・しげいえ]の居城・新発田城(新潟県新発田市大手町)攻めの前衛を担った。慶長3年(1598)、徳川家康に屈した景勝に従い、越後から会津(福島県)へ移り、慶長9年(1604)没したと伝わる。子孫は米沢(山形県)上杉藩士として続いたという。