長野市豊野町にある。上杉謙信が川中島への前衛拠点のために髻山城[もとどりやまじょう]を築いた際、完成するまでの間、家臣の甘粕近江守に命じて、わずか三日で築かせたと伝わる城。
三日城跡近くの丘陵には、川中島の戦いの際に上杉勢が旗を立て並べたといういくつもの旗塚が残っており、善光寺平への備えと考えられている。
岡澤先生の史跡解説
長野市豊野町と上水内郡飯綱町牟礼との境界にある標高774.5mの髻山は、川中島平をはじめ、豊野・牟礼・三水・野尻方面など信越国境方面の眺望がよく、目印になりやすい独立峰である。そのため、武田、上杉双方の軍事拠点として重要視された。川中島合戦初期、島津領が上杉方であったことから、上杉氏が髻山城、三日城など周辺に城塞を築構し、整備した。そして髻山城の争奪がくり返されるたびごとに、城塞は拡張・整備されていった。
髻山から東方、石・豊野・浅野(豊野町)方面と東方に向かう支脈の尾根は、武田と上杉の軍事境界線にあたった。特に上杉軍にとっては、この境界線は武田の信越国境の領有化を阻止する軍事的ラインであった。この尾根沿いに、前平旗塚群・長峰旗塚群・十二旗塚群・十二廻り旗塚群・押久保中峰旗塚群・一里塚旗塚群を上杉方が築構、善光寺平側の武田勢に威示行為として旗を立てた土盛と伝えられる遺跡が数多くある。また、髻山から流出する宇佐美沢(長野市吉)には、上杉の武将宇佐美駿河守定行が築構したと伝えられる砦跡がある。
永禄7年(1564)の塩崎の対陣の後、川中島・善光寺平のほとんどは、実質的に武田領となった。しかし、旧島津領地域の完全な支配はできなかった。これは島津氏が在地に留まって、武田勢に対抗していたことにもよる。在地に踏み留まり、武田に徹底抗戦した国人武士は、この島津氏と飯山城に拠った高梨氏のみであったという。武田氏が信越国境まで完全領有化するのは、武田勝頼が上杉景勝と和議を締結した天正6年(1578)である。
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