赤川の歌碑

骨をつみしほ流ししもののふの
おもかげうかぶ赤川の水
         浅井洌作歌

この場所にはかつて、建御名方命[たけみなかたのかみ]を主祭神とし、西寺尾村岡組の産土守[うぶすながみ]として勧請された神社(赤川神社)があった。永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、この神社周辺を中心に甲越両軍の主力による激戦が展開され、死者8千余名と伝えられる数多くの将兵や里人が犠牲となった。社前を流れる川は、凄まじい激戦の中で討ち死にしたり、傷を負った将兵が流す血で、三日三晩赤く染まったという。

地元の人々は川中島の激戦の跡を偲び、鎮魂の情をもって、昭和2年(1927)5月、赤川神社跡地の塚山に、浅井洌[あさい・れつ]の赤川歌碑を建立した。

歌碑から少し東に離れたところには、山本勘助の首と胴を合わせた胴合橋がある。

岡澤先生の史跡解説

浅井洌[あさい・れつ]は松本藩士大岩家に生まれ、浅井家を継いだ。長野師範学校教師。長野県歌「信濃の国」の作詞者。「信濃の国」は明治33年(1900)、長野師範学校校庭運動会で遊戯用として発表された。その親しみやすく、美しい旋律、振付は卒業生によって小学校の運動会などで広められると、「信濃の国」は瞬く間に普及し、県民の歌として愛称されるようになっていった。
この歌詞は、長野県の風土・産業・歴史を盛り込んだ6連構成である。第5連歌詞に、悲劇の武将木曾義仲と、武田信玄5男仁科五郎盛信(勝頼異母弟)がみえる。盛信は、天正10年(1582)、伊那地方に攻め込んできた織田軍を高遠城で迎え撃ち、奮戦の効なく壮絶な最期を遂げた。

 「信濃の国」第5連の歌詞
 旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛(のぶもり)も
 春台(しゅんだい)太宰先生も 象山(ぞうざん)佐久間先生も
 皆此の国の人にして 文武の誉たぐいなく
 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず

歌碑西側の幅3mほどの市道は、江戸時代は松代善光寺道と呼ばれ、真田10万石城下町、松代と善光寺を結ぶ主要街道であった。この街道について『西寺尾村誌』に「本村の北方小島田村境より、杵渕村[きねぶちむら]字胴合・槌井神社[つちいじんじゃ]前を経て、往古は杵渕村広瀬の舟渡しを渡り、東寺尾村から城下町に至る。幅9尺」とある。現存のこの道は、川中島古戦場史跡公園南側の市道中央部から、赤川歌碑前、主要地方道長野真田線東側歩道、赤川信号、長野真田線潜り道、槌井神社前を経て千曲川堤防にのぼる道で、1.5Km ほど。近くに典厩寺がある。

アクセス
長野ICより車約5分