戸隠神社奉納祈願文(武田晴信願状)

戸隠(とがくし)大権現に捧げた武田晴信(たけだはるのぶ、信玄)願文。戦いに勝って領土を広げていくために、少しでも多くの神仏の加護を得たいと願った武田信玄が、永禄元年、信濃一円の掌握と上杉の滅亡を戸隠中院大権現に祈願した願状。

当初戸隠三院は上杉側だったが、この願状が収められたことにより怒った上杉謙信は永禄2年(1559)戸隠に出兵。甲越両軍の争いに巻き込まれ、危機にさらされた宗徒らは、鬼無里(きなさ)に逃れ難を避け、永禄7年(1564)には大日方(おびなた)氏をたより、上水内郡小川郷(かみみのちぐん・おがわごう)に身を潜めるなどの憂き目にあった。

願文は数少ない武田信玄の真筆であり、戸隠神社宝物として大切に保存されている。

岡澤先生の史跡解説

信玄は永禄元年(1558)8月、戸隠神社に修理費銭50貫文を納めて、必勝を祈願した。この願文は、「先年、筮竹(ぜいちく)で占いをした。まず、『永録元年に信州に出陣しようと思うが、12郡が自分の思う通りになるかどうか』を占ったら、『行けば必ず得るなり』という卦がでた。次に『越後と甲州の和睦を破って合戦をしてよいかどうか』ということを占ったら『君子往くところあり、先に迷いて後に得ん』という卦がでた。したがって、今信州に出陣すれば信濃全部が私の手に入ることに決まっている。筮の卦が吉とでたから、敵はすぐに滅亡し、晴信が勝利するに決まっている」というものである(『信濃史料』第十三巻)。

信玄は翌2年5月、南佐久郡小海町松原湖の松原神社に願文を奉納して勝利を祈願した。この願文にも「占いをしたら最吉とでた。したがって、信州奥郡越後境に出陣する。勝利したら、毛糸の具足一両・神馬一匹を献納する」とある。

信玄の願文に「筮の卦が吉とでた」、神も自分に味方する方が得策という趣旨のものが多い。これに対し、謙信の願文は「ここに武田晴信と号する侫臣(ねいしん)がいて、信州に乱入して住国の諸士をことごとく滅亡させ、神社仏閣をも破壊する」(弘治3年・千曲市武水別神社願文)。「信玄は戸隠神社はじめ、諸寺社を衰微させた。輝虎の出兵は村上氏らの憤りを晴らすため」(永禄7年同)と、戦いは領土的野心はなく、信濃の諸社寺、諸氏のためである」と述べている。


奉納 戸隠山大権現神前 願状
右意趣者、先筮曰、来戊午之歳欲移居於信州、則十二郡可随吾存分哉否之占ト、舛之九三也、其辞昇虚邑無所疑、注曰、往必得也、又越後与甲州円融和同之事停止之、動甲戈可吉哉否之先ト、坤之卦也、斯文曰、君子攸往、先迷後得、主利安貞吉云云、由是今移居於信州、則当歳之内、一国不残卓錐之土、可帰予掌握、若越士動干戈者、任先筮坤卦之吉文、敵忽滅亡、得晴信勝利者必矣、粤孔方五十緡為当社修補、可奉供 権現宝前者也、仍如件、

維時永禄元年戊午八月如意日 源晴信(花押)敬白
  戸隠山中院 

※以上、原文。戸隠神社文書。 
(参考資料:『米山一政著作集 第2巻』信濃毎日新聞社 1997)

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