広田城跡(広田砦跡・東昌寺・昌龍寺)

土塁跡

読みは「ひろだじょうあと」。広田砦(広田城)は、昌龍寺[しょうりゅうじ]の辺りから東昌寺[とうしょうじ]辺りにかけて、武田方の川中島中央部の押さえとして弘治年中(1555~1558)に築かれた砦といわれる。

武田信玄は安曇郡千見[せんみ]城主・大日方佐渡守直長[おびなたさどのかみ・なおなが]にこの地を所領として与え守らせた。のち直長の子・山城守直家[やましろのかみ・なおいえ]が後を継いだが、武田家滅亡後、大日方氏は本領水内郡小川に戻り、砦は壊された。

砦の跡地に真田家6代藩主幸弘が創建した東昌寺(東昌禅寺)には、砦の一部と伝えられる土塁の跡が残っている。

岡澤先生の史跡解説

広田砦は、東西約54m、南北約90m、外郭東西約144m、南北約164mほどで、周囲には濠がめぐらされていた。昌龍寺を取り囲む道路は、砦の濠跡である。

新たに広田に所領を得た大日方直長は、広田の地にある地蔵菩薩像が、堂舎は廃れて風雪に曝されていることを嘆き、寺院建立を企画したが、志半ばにして亡くなった。子の直家は父の志を継ぎ、父の菩提と、領民の繁栄平和を願い、天正5年(1577)砦跡に昌龍寺を建立して、亡父直長を開基とした。直長の墓は、本堂北側の墓地の南西部に開山順貴禅師[じゅんきぜんじ]の墓と並んで建立されている。寺紋は大日方氏と同じ「丸二」である。

大日方氏が広田の地を所領する以前は、村上氏支族の広田氏が、広田・藤牧・小島田にかけて領知していた。広田氏は水内郡芋川氏と姻戚関係にあった。芋川氏に世継ぎがなかったため、広田氏が芋川に移住し、芋川を名乗った。川中島の戦いでは、村上義清と越後に走り、信州先方衆として武田に抗した。天正10年(1582)武田家が滅亡すると、川中島に帰郷し、旧領を回復した。天正12年(1854)正月、芋川親正は飯綱神社に寄進していた小島田の地を再び飯綱に寄進している。昌龍寺の高さ約15mの四面角塔鐘楼は、明治の初期ころに、松代城の隅櫓[すみやぐら]を移築したと伝えている。

昌龍寺の西方の東昌寺は、広田氏支族の藤牧氏の館跡にある。土塁は北東隅に復元され、寺を取り巻く道路は環濠跡である。藤牧氏も宗家広田氏とともに上杉方として川中島の戦いに出陣している。

アクセス
長野ICより車約15分