大岡城跡の東側にある曹洞宗のお寺。読みは「てんそうじ」。
寺伝によると、文応年間(1260~1261)に香坂宗清[こうさかむねきよ]が開基となって創建。麻績城主・小見氏の娘華蔵院(諏訪頼重の室)が中興開基とされる。武田信玄が諏訪を滅ぼした時、「武田勝頼を生みたる国光院(※由布姫)と共に信玄に掠奪せられ、後生地麻績の郷に安栖……」と伝えられているように、華蔵院はここを庵として住み、のち天正3年(1575)牧之島城代の馬場美濃守信房が伽藍を建て、聖雲山天宗寺と号した。深志城から海津城への中間地点にあり、川中島の戦いのころは武田信玄もしばしば立ち寄ったとされる。
本堂の両脇には樹齢400年といわれるシダレザクラが立ち並び、信徒が本堂に向かって手を合わせる姿と重ねあわせて「合掌桜」とも呼ばれ、地域の人々に親しまれている。
岡澤先生の史跡解説
『県町村誌』や『信濃宝鑑』では、天宗寺の由来について次のように記している。
延喜年間(901~923)滋野朝臣香坂宗清が当地に来て草庵を結び、聖雲山法香庵と称した。その後、応永2年(1395)山火事で焼失し、寺跡は草木の生え茂る荒れ地と化した。永禄2年(1559)武田勝頼は、弘治元年(1555)25歳で亡くなった母、諏訪御料人(華蔵院梅顔妙香大禅定尼・風林火山の由布姫)の菩提のため、16貫余の地を寄進して堂塔を再建し、諏訪御料人を開基とした。天正3年(1575)新たに牧之島城代になった芋川親正[いもかわちかまさ]は、宗清の遺跡であることを懐慕し、興禅寺7世俊察を迎えて開山とした。
このように寺伝と一致しない記述はあるが、天宗寺を含めた大岡の地は、牧之島城に拠った香坂氏の支配圏であった。寺域には大岡城の土塁跡・甲州流築城の特徴である三日月形濠が残る。
- アクセス