読みは「てんきゅうじ」。八幡原の戦いで討ち死にした信玄の弟・典厩信繁(てんきゅう・のぶしげ)の墓がある。
典厩寺はもとは鶴巣寺(かくそうじ)と号し、合戦から60年後の承応3年(1654)に松代(まつしろ)藩主(海津城主)の真田信之(さなだ・のぶゆき)が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔った。
境内には、信繁の首を洗ったという「首清め井戸」や、甲越弔魂碑(こうえつちょうこんひ)、武田・上杉両雄の一騎討ちの碑などがたたずむ。また、合戦の両軍戦死者を供養する閻魔(えんま)堂と、信玄・信繁・山本勘助の画像ほか武具、仏画など貴重な史料60点余りを収蔵展示する川中島合戦記念館が建てられ、川中島合戦の歴史を今に伝えている。なお、閻魔堂の閻魔大王像は日本一大きいことで有名。
岡澤先生の史跡解説
典厩寺の本堂に信繁の位牌が安置されている。割菱紋が上部に彫ってある位牌の中央部に「当寺開基 武田典厩松操院殿鶴山巣月大居士」、右側に「永祿四辛酉年」、右側に「九月初十日」と刻まれている。
信繁は信虎の次男で、信玄は同母兄である。左馬助と称した。典厩は唐名で、世間では信繁を典厩といった。父信虎は信玄を疎んじ、信繁を愛したが、信繁は兄信玄に対して恭順の心を失わず、よく信玄の内外の経略を補佐した。真田信之の父、昌幸は信繁の知性、武勇に心酔し、次男を信繁(幸村)と命名している。
真田初代藩主信之は、承応3年(1654)寺号を典厩寺と改称して、寺領5石の朱印地を給した。八代藩主幸貫は、万延元年(1860)川中島合戦300年を記念して閻魔堂を建立し、甲越戦没者の菩提を弔った。典厩寺の山門は、真田3代藩主幸道の霊屋の門を移築したものと伝えている。このように典厩寺は真田歴代藩主から手厚い保護をうけた。
伊東祐亨(いとうすけゆき)元帥揮毫の「懐古」の石碑は、明治39年(1906)川中島合戦350周年記念のとき、甲越戦死者の弔魂のために建立された。
- アクセス
- 長野市篠ノ井杵渕 長野ICより車約10分