武水別神社

千曲市にある武水別神社は、通称「やわたの八幡[はちまん]さま」とも呼ばれ、近郷の人々に親しまれている川中島地方随一の大社。

主祭神の武水別神[たけみずわけのおおかみ]は水を司る神で、善光寺平の五穀豊饒と千曲川の治水を祈念して祀られたという。安和年間(968~970)に京都・石清水八幡宮より、八幡宮が勧請され、やがて一帯は本八幡村(ほんやわたむら)と称された。

川中島に出陣した上杉謙信は、天文22年(1553)4月に八幡周辺で初めて武田軍と交戦し、村上義清[むらかみよしきよ]らの所領を一時回復させることに成功。同年9月にも同地で再び武田勢を破っている。また、弘治3年(1557)と永禄7年(1564)には、謙信は信濃へ乱入してきた武田信玄の討滅を同社(更級郡八幡宮)に祈願している。

岡澤先生の史跡解説

武水別神社は、武士にとっては、諏訪神社と同じく、戦勝祈願の社として利用された。木曾義仲は養和1年(1181)6月、越後の城資職[じょうのすけもち]を討つべく白鳥河原に着陣し、平家軍の動静を偵察することを楯親忠[たてちかただ]に命じた。物見に出た親忠は25日、八幡社を参拝し、「南無八幡大菩薩、我が君の先祖が崇める霊神、願わくば、木曾殿の今度の戦に勝事を得しめ給へ」と祈願している(『源平盛衰記』横田河原の戦い)。

川中島の戦いでは、弘治3年(1557)正月20日、越後の長尾景虎(謙信)は、八幡宮に祈願して、「武田晴信と号する侫臣[ねいしん]がおり、信州に乱入して、住国の諸士をことごとく滅亡させ、神社仏閣をも破壊する」(『古代古案』)と、願文を献じて必勝を祈願している。さらに、川中島の最後の戦いとなった永禄7年(1564)の塩崎の対陣では、謙信は7月下旬、春日山を発ち、同月29日に善光寺付近に着いた。そうして、佐久郡まで進み、状況によっては、碓井峠[うすいとうげ]を越えて上野[こうずけ]へ出るつもりであった。その時の8月1日、更級郡八幡宮に長い願文を納めて、信玄の滅亡を祈った。この願文でも、「武田晴信が父を追放したのは、鳥獣にも劣る悪行である。また戸隠・飯縄・小菅・善光寺らの神領、寺領をとりあげ、社寺を衰えさせ、人民を苦しめた」(『上杉年譜』)と述べ、自分が信濃に兵を出すのは決して信濃が欲しいからではなく、小笠原・村上・高梨・須田・島津の憤りを晴らすためと強調している。

この塩崎の対陣では、信玄は松本方面から進出し、八月下旬更級郡塩崎城(白助城)に陣を取った。しかし両軍は対陣したまま、決戦は行われなかった。謙信は敵地に長くいることの危険を感じ、兵を納めて飯山城へ引き上げた。この永禄7年(1564)の「塩崎の対陣」を最後に、川中島の戦いは幕を引いた。

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