弘治元年(1555)7月、村上義清・高梨政頼らに援助を請われ川中島に出陣した上杉謙信が陣を構えた善光寺東方の平山城。善光寺一円を支配する重要な拠点でもあり、善光寺横山城ともいわれる。
このとき、武田信玄は犀川をはさみ大堀館(おおぼりやかた)を本営として謙信と対峙した(第2次川中島合戦)。謙信は、横山城を拠点に葛山城(かつらやまじょう)を整備して栗田氏がこもる武田方の旭山城を攻めるが、なかなか攻略することができず、今川義元の仲裁により和議が成立するまで、200日余りの膠着状態が続いた。その後も謙信は川中島に出陣するにあたり、横山城を陣域として武田軍との戦いに挑んだ。
現在、土塁の跡が残る本廓跡には、諏訪大明神の別宮といわれ、善光寺境内にあった健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社が建っている。一帯は城山公園として整備され、動物園やプール、少年科学センター、美術館などが点在し、春は桜の名所として多くの人々で賑わう。
岡澤先生の史跡解説
「信州凶徒、村上中務大輔(たいふ)入道・小笠原信濃入道・高梨信濃守・長沼太郎以下の輩、至徳(しとく)4年(1378)4月28日、数多数引率し、善光寺において義兵を挙げ(中略)去る8月27日、善光寺横山において、村上馳せ向かうにおいて合戦いたすに及ぶ」(『信濃史料叢書・市河文書』)とある。これは、信濃守護代二宮氏泰(にのみやうじやす)が横山城に籠り、反守護軍の村上頼国(むらかみ・よりくに)らと戦ったことの史料である。このように鎌倉時代から横山城は信濃国衙(こくが)として重要な拠点であった。
永禄4年(1561)の八幡原激戦(第4次川中島の戦い)の前日、9月9日、上杉景虎(うえすぎかげとら・謙信)は妻女山(さいじょざん)本陣に直江山城守(なおえやましろのかみ)、甘粕近江守(あまかすおおみのかみ)両将を呼んで「今夜武田軍の夜襲が必ずある。その前に川中島へ押し出し、最後の決戦をおこなう」と申し渡した。直江、甘粕の両将は下山して、「明日、御大将御帰陣の旨を仰せつけられた。したがって、ただ今より荷物をまとめること。短日であるので、夜中の出発もあろう。各人その準備をするように、もし敵が遮るようなことがあれば、切り破り、善光寺へでること」(『甲越信戦録』)と、総軍に触れた。この善光寺は、横山城を指している。景虎は川中島に出陣の際にはこの横山城に陣を構えた。
横山城の本郭は、東西56m ・南北36m 、二の郭は、東西54m ・南北72m の平坦面である。本郭跡に明治12年(1879)健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社、二の郭跡に社務所が建てられた。
- アクセス
- JR長野駅よりバス約15分、城山小学校前下車徒歩5分