かつて山本勘助の墓とともに建っていた浄土真宗のお堂。千曲川の陣ヶ瀬[じんがせ]東高畑[ひがしたかはた]にあった山本勘助の墓は、松代藩士・鎌原[かんばら]父子らが元文4年(1739)に信州柴阿弥陀堂の境内に遺骨を移し、墓碑を建立した。お堂は昭和のはじめに千曲川河川改修の堤外地となったため移築され、現在は、39代目の堂主吉池重行氏の宅地内にある。
信州柴阿弥陀堂は、親鸞上人[しんらんしょうにん]真筆の十字名号[じゅうじみょうごう]を本尊として開基。永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、武田信玄が戦没者の霊を弔うため陣小屋を寄進し、善光寺如来御分身仏を奉安したと伝えられる。また、上杉謙信も使者を遣わして礼を拝したという。地元では「お柴さま」の愛称で親しまれている。
岡澤先生の史跡解説
この柴阿弥陀堂について、松代藩家老鎌原貫忠[かんばら・つらただ](桐山)は、『朝陽館漫筆』のなかで、「むかし阿弥陀堂は2間・3間ばかりの山堂であった。武田信玄公は川中島の陣小屋を寄進され、6間・12間の堂が堂主によって建てられた。堂の柱に土台もなく、野石の上に建てたので、200余年過ぎて、柱の元がみな朽ちてしまった。そこで、吉池主計[よしいけ・しゅけい]が安永8年(1779)現在地に移築した」とある。
文化7年(1810)9月9日、大林寺で山本勘助の250回忌の法会が営まれた後、阿弥陀堂でお齋の席が設けられた。柴阿弥陀堂は、山本勘助の墓もあって、松代藩重役、藩士をはじめ、近郷、遠郷からの参詣人でにぎわっていた。俳人大島蓼太[おおしま・りょうた](無沙庵太初)は、真田幸弘[さなだ・ゆきひろ]に招かれて松代逗留中、柴阿弥陀堂に参詣し、
おもかげや川中島のしぐれ雨
と詠じている。また、鈴木重春の「北国街道分間絵図」にも「八幡原付近に山本勘助の石塔があったが、千曲川の洪水のため、今は柴の阿弥陀堂という所へ移す」とある。重春は高田藩の中老職で、俳人で絵画に秀でていた文化人でもある。このように柴の阿弥陀堂は、山本勘助の墓所として知られ、文人墨客なども足を運び、歴代堂主と親交を結んだ。
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