清野氏居館跡(古峰神社)

参道

鞍骨山(くらぼねやま)の麓、清野大村地区にある古峰(こみね)神社は、鞍骨城主・清野[きよの]氏の屋敷跡と伝えられる。宝永年間(1704~1710)に清野氏と村人らの鎮守のため建立されたという。

祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。社殿左手には、弘化2年(1845)松代藩家老・鎌原桐山(かんばらとうざん)(重賢[しげたか])建立による清野氏を讃えた石碑「清野氏遺愛碑」がある。

清野氏の居館はもともと現在の松代城(海津城)跡にあったが、武田信玄が海津城を築城したときに移転したとも伝えられている。

岡澤先生の史跡解説

清野氏の居館跡のある鞍骨山北山麓、台地上の小平地にある古峰神社は、明治のはじめころまでは、日吉(ひえ)神社といった。清野氏が海津館(松代町大英寺付近)に移った後は、倉庫が置かれた。海津館の酉(西北)の方角に当たったので、酉の蔵屋敷と呼ばれた。

清野氏は村上氏の有力な一族で、全盛時の所領は、西条・清野・岩野・土口・生萱・森・倉科・矢代の9村におよび、石高は8,658石余(慶長7年(1602)『川中島四郡検地打立之帳』)あった。

天文22年(1553)8月、武田晴信(信玄)に敗れた村上義清と清野清重(清寿軒)も長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に逃れた。弘治元年(1555)、同3年(1557)の川中島の戦いでは、清重は上杉信州先方衆として川中島に出陣し、武田軍を苦戦に陥れた。永禄2年(1559)武田氏に降り、帰郷した。その後、天正10年(1582)武田家滅亡後、清野氏は上杉景勝に属した。慶長3年(1598)景勝に従い、清野氏も会津に移住した。千曲市森の禅透院(ぜんとういん)、松代町西条の法泉寺はいずれも清野氏の開創寺院で、清野氏の墓があり、位牌が安置されている。

その後、宝暦7年(1757)、天保11年(1840)に酉の蔵屋敷から出火して、大村集落はその都度灰になった。こうした災害は、この地を去った旧領主、清野氏をないがしろにすることから起こるのだと、出自の地を離れ、遥かな異郷で暮らす清野氏を、清野村の人々は互いに想い遣った。そこで弘化3年(1846)古峰神社境内(酉の蔵屋敷跡)に「清野氏遺愛之碑」を建てて供養した。撰文は松代藩家老で、漢学者であった鎌原重賢(かんばら・しげたか/貫忠と改名・桐山)である。この遺愛碑の除幕式に招聘された深谷鸞山[ふかやらんざん] は、「これもその夢の跡にや枯れ野原」の句を詠んだ「遺愛碑建立讚文」の掛け軸を碑前に供えた(篠ノ井中沢・深谷家蔵)。鎌原重賢は、重修した山本勘助の墓を柴の阿弥陀堂の庭に文化6年(1809)に建てたことでも知られる。

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