長野電鉄金井山駅の裏手、松代の東北に半島のように突き出た金井山山頂にある。長野市松代町柴。南北に2つの郭が並び、細長い山の背を利用した山城で、寺尾氏の家老だった金井氏の砦と伝わる。
川中島合戦のころは、南側にある寺尾城とともに尼厳城の出城に利用され、海津城が築城されてからは、その東北を固める役割を果たした。かつては千曲川が金井山の先端部を巻くように流れ、南東には大室(おおむろ)から松代に通じる可候(そろべく)峠が通っていた。麓には金井池、牛池など旧流域の名残をとどめる池沼がある。
昭和の初めには遊園地もあったという金井山公園の展望台からは、千曲川の流れと対岸に古戦場一帯が広がり、北信濃五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山。諸説ある)などが見渡せる。手前の千曲川堤防には「山本勘助の墓」の場所も確認できる。幕末、公武合体派の開国論者・佐久間象山(さくま・ぞうざん、しょうざん)はこの地を訪れ、「萬景指顧にあり」とその眺望に感嘆し、立ち去ることをためらったという。平和観世音像、お不動さん、御岳神社の霊神碑などが建ち、大室古墳の遺跡などもある。
岡澤先生の史跡解説
城跡は尼飾山(尼巌山)の支脈が西北に細長く張り出した金井山の山頂にある。本郭は土塁で囲まれ、尾根上にはいくつかの郭跡がみられる。北の麓には「堀ノ内」の地名がある。金井山の鞍部(あんぶ/山のくぼんだ所)には鳥打峠があり、この峠の東側の大室郷から奥信濃方面へ飯山道がある。金井山城は寺尾城の支城で、飯山道の押さえの城として重視された。
金井山は「柴石」と呼ばれた石材を切り出した。柴石は「白石」とも呼ばれた。尼飾山など東条の山から切り出される石材は「赤石」と呼ばれた。松代城の石垣のうち、白みの石は金井山の柴石であり、赤みの石は尼飾山の東条石である。川中島地方の墓碑の多くは柴石や東条石が使用され、柴や東条には石工店が多かった。松代町柴にある山本勘助の墓の二段目の台石と角柱墓碑は東条石で元文4年(1739)に建立された。その後文化6年(1809)、柴石で基礎と一段目の台石が重修された。
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