大岡城跡

大岡城跡

砦山城[とりでやまじょう]とも呼ばれ、武田軍によって築かれたといわれる。近くにある天宗寺が館跡とされている。築城法は甲州流の特徴といわれる丸馬出しや三日月堀が見られる。

永禄元年(1558)武田信玄は、上杉謙信の川中島への進攻に備え、北信濃の諸城の番手(城で警護にあたる兵。城番)を決めた。その際、大岡城の在番衆として市川梅隠斎[いちかわばいいんさい]・青柳近江守清長[あおやぎおうみのかみきよなが]を任じた。

麻績城[おみじょう]から信州新町の牧之島城へ抜ける街道筋にあたり、また深志城(松本)から川中島への中継拠点でもあった。

岡澤先生の史跡解説

大岡城は聖山[ひじりやま](標高1447.6m )の北西に延びた支脈の尾根上にある。武田信玄は、小笠原氏を破り、筑摩・安曇地方を領有化すると、佐久・上小方面に加え、水内、更級西部方面からも川中島・善光寺への侵攻をはじめた。天文21年(1552)古山[ふるやま]城(上水内郡小川村)に拠った大日方氏、同22年(1553)牧之島[まきのしま]城(同郡信州新町)に拠った香坂氏は、相次いで武田氏に従属した。武田信玄は上杉・村上の押さえとして筑北に青柳[あおやぎ]城、麻績[おみ]城・日向[ひなた]城を、西部水内に古山城・立屋[たてや]城、牧之島城を整備、強化させた。これら筑北諸城と、西部水内諸城の接点に当たるのが更級大岡城である。

樺内の天宗寺[てんそうじ]の西側に大岡城跡の遺構が残っている。本郭は一辺80mと70mの土塁と空堀に囲まれ、その前面に甲州築城法の特徴である三日月堀がある。永禄元年(1558)に信玄は、市川梅隠斎と青柳氏に城番を命じている。大岡の地侍には中牧氏がいたが、川中島合戦期に入ると、青柳城(東筑摩郡筑北村)に拠った青柳氏が大岡に勢力を拡大していたことが、大岡城番として信玄が青柳氏を配した背景にもなった。

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