川中島の戦い・主要人物
新発田尾張守長敦(しばた・おわりのかみ・ながあつ)
[生年不詳~天正8年(1580)]
新発田長敦・源二郎
- 弟の重家とともに謙信を支えた揚北衆の重鎮
御館の乱で国人衆を統率し、景勝を勝利に導く 新発田城(新潟県新発田市)主。新発田氏は、佐々木加地氏の支族で揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)の一員。長敦は、武勇の誉れ高く、春日山城門番を務め、内政・外交面で活躍し、謙信・景勝の二代に仕えた。天正3年(1575)「上杉家軍役帳」には194人の軍役を負担している。
天正6年(1578)謙信亡き後の家督争い「御館(おたて)の乱」※では、国人衆をとりまとめ、弟・重家とともに軍功を挙げて、景勝方の勝利に大きく貢献した。また同年景勝と武田勝頼との和議に向けて奔走し、甲越同盟成立にも尽力した。
しかし、家督を継ぐことに成功した景勝は上杉家の譜代・旗本衆を遇したため、揚北はじめ他の国人衆にはなんの恩賞も与えられない状況のまま、長敦は天正8年(1580)に没した。新発田家を継いだ弟の重家は、恩賞のないことを不服として、景勝に対して謀反を起こす。景勝は重家討伐の兵を挙げるが、重家の抗戦は6年に及んだ。そして天正15年(1587)新発田城は落城し、重家は自害した。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。