川中島の戦い・主要人物

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今川義元(いまがわ・よしもと)

[永正16年(1519)~永禄3年(1560)]
母・寿桂尼とともに駿河・今川家の采配をとった信玄の義兄

駿河の守護大名・今川氏親[いまがわ・うじちか]の子。母親は京都の公家である中御門宣胤[なかみかどのぶたね]の娘・寿桂尼[じゅけいに]。二人の兄の死後、氏親の側室の子・玄広恵深[げんこうえたん]と相続争い(「花倉[はなぐら]の乱」)の末、天文5年(1536)に家督を掌握。梅岳承芳[ばいがくしょうほう]と称する僧であったが、還俗して今川家9代当主となる。

正室は武田信虎の娘(信玄の姉)定恵院[じょうけいいん]。氏親時代から対立関係にあった武田とは友好関係を深め、三条[さんじょう]夫人が武田晴信(信玄)の正室となったのも今川家の斡旋によるものという。また、のち甲斐から追放された信虎は義元の庇護を受けることになる。

川中島の戦いで武田・上杉を調停。「海道一の弓取り」は桶狭間で敗れる

天文23年(1554)には相模の北条氏康[ほうじょう・うじやす]と戦うが、勝敗決せず、晴信、義元、氏康の三者が互いに姻戚関係を結ぶことで和睦。甲・相・駿の三国同盟が成立し、義元は駿河・遠江・三河を支配下におさめ、「海道一の弓取り」といわれるほどの大きな勢力を築き上げた。弘治元年(1555)、武田・長尾(上杉)両軍が長期にわたって対陣した第2次川中島の戦いでは、義元が乗りだし、和睦成立の仲介もなす。永禄3年(1560)京都への西上の途中、織田信長との桶狭間[おけはざま]の戦いで討ち死に。享年42歳。以後、今川家の勢力は衰退していく。

今川家にも仕官を望んだ山本勘助

『風林火山』の物語には、山本勘助が今川家への仕官を望み続けたが、拒まれて武田晴信(信玄)のもとに向かった。また、『甲越信戦録』では、「お前のようなものでも召し抱えてやろう」と言う義元を「自分の勇猛に誇り、他の善悪を知る人物ではない」と、勘助のほうから主君としての見切りをつけている。