川中島の戦い・主要人物
北条氏康(ほうじょう・うじやす)
[永正12年(1515)~元亀2年(1571)]
- 河越[かわごえ]夜戦で武名を轟かせ、関東一円を制した相模の獅子
小田原・後北条[ごほうじょう]氏3代目当主。北条氏綱[ほうじょう・うじつな]の長男で、戦国大名の先駆けといえる北条早雲[ほうじょう・そううん]の孫。天文10年(1541)に家督を継ぎ、初代早雲が築いた領国を次々と拡大。難攻不落とされる相模小田原城を本拠地に関東一円の支配をめざし、武田信玄・上杉謙信と覇を競った。
天文15年(1546)、今川義元と提携した関東管領[かんとうかんれい]上杉憲政[うえすぎ・のりまさ]らの軍勢をわずか10分の1の兵力で撃破した河越[かわごえ]夜戦で武名を轟かせる。天文20年(1551)には上杉憲政を越後に追放し、関東の大半を手中におさめる。天文23年(1554)の甲・相・駿の三国同盟にあたっては、子の氏政[うじまさ]のもとに武田信玄の長女(黄梅院[こうばいいん])が嫁ぎ、今川氏真[いまがわ・うじまさ]のもとには娘を嫁がせた。永禄10年(1567)、信玄が駿河に侵攻したことで同盟は破れ、氏康は一時上杉謙信とも手を結んだ。
- “氏康傷”は勇者の証し。軍略・民政に卓越した手腕を発揮する
氏康は、勇猛で武略に長じ、外交・内政ともに卓越した力を発揮した。顔に2カ所、体に7カ所の刀傷があり、16歳で初陣以来、36回の合戦に出陣したが、一度も敵に背を見せなかったことから、向う傷のことを「氏康傷[うじやすきず]」と呼ぶようになったという逸話もある。また、戦国随一の民政家とも評され、文武両道に秀でた名将であった。元亀2年(1571)、氏政に武田との和睦をはかるようとの遺言を残し、57歳でこの世を去った。領主の死に多くの家臣・領民が涙を流して悲しんだといわれる。その後、北条家は孫・氏直[うじなお]の代に豊臣秀吉によって滅ぼされた。