川中島の戦い・主要人物
宇佐美駿河守定行(うさみ・するがのかみ・さだゆき)
- 謙信の軍師をつとめた越後第一の勇士。 川中島の戦いで武田信繁を討ち取る
『甲越信戦録』によると、上杉四天王の一人・宇佐美駿河守定行は、越後第一の勇士との誉れ高く、上杉謙信の軍師と仰がれた。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いにおいても武功比類ない働きを見せ、八幡原の武田本陣に切り込んだ定行は、鋭く突き出す槍さばきによって、武田典厩信繁[てんきゅう のぶしげ]を討ち死ににいたらしめた。永禄7年(1564)7月、定行は野尻池に船を浮かべ、謙信の姉婿にあたる政景(上杉景勝の父)に叛心があるとして、政景を道連れに入水自殺を図り、殺害した。野尻池は、上水内郡信濃町の野尻湖ともいわれ、湖の中に浮か ぶ琵琶島(びわじま)には「定行の墓」がある。
また、上杉軍の川中島への進出拠点となった髻山(もとどりやま)城には、第4次川中島の戦い(川中島八幡原の戦い)の後、定行が立てこもり戦ったという伝承があり、「宇佐美沢」の地名が残されている。
- 宇佐美定満がモデルとなった伝説の武将
駿河守定行は、寛永年間(1624~1643)、定行の子孫と自称する宇佐美定祐[うさみ・さだすけ]が刊行した『北越軍記』『越後軍記』のなかに登場する創作上の人物とされ、実在した宇佐美駿河守定満[うさみ するがのかみ さだみつ]がモデルという。定祐は、その定満の孫とも伝わる。
宇佐美氏は、伊豆国宇佐美荘(静岡県伊東市)の豪族で、藤原頼朝に仕えた工藤左衛門祐経[すけつね]の弟、三郎祐茂[すけしげ]の末葉とされる。南北朝初期に越後守護上杉憲顕[のりあき]に従い越後に入府し、戦国期には琵琶島城(新潟県柏崎市)を本拠とした。天文20年(1551)、長尾政景と景虎(謙信)の家督相続争いで、駿河守定満は景虎側につき、臣下となった。
『甲越信戦録』にも語られているのと同様に、永禄7年(1564)、野尻池に船を浮かべて遊宴中、長尾政景とともに溺死したといわれる。なお、定祐は、越後流軍学の総帥で、紀州(和歌山県)藩士となり、宇佐神(うさじ)流という兵法を創唱したという。
直江山城守兼続(なおえ・やましろのかみ・かねつぐ)
- 川中島の戦いで小荷駄隊を指揮。 合戦中は丹波島の渡しを死守した『甲越信戦録』の山城守兼続
『甲越信戦録』に登場する「直江山城守兼続」は、木曾義仲四天王の内、樋口次郎兼光の末葉とされ、上杉の四天王の一人に数えられる。
永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、小荷駄(こにだ/食料、弾薬や馬糧などを運ぶための専門部隊のこと)奉行として丹波島に留まり、上杉謙信の本隊を側面から支えた。9月10日早暁、八幡原の武田本陣に猛虎のように攻めかかった上杉軍だったが、武田別働隊が駆けつけ、形勢は逆転。上杉勢は犀川を渡り善光寺方面へと北走する。丹波島の渡し付近の直江山城守は、200騎ばかりで高坂・甘利[あまり]の武田二勢を引き受け、味方が川を渡るのを援護した。やがて日が暮れ、大将の謙信が越後に逃れたことがわかると、直江山城守は犀川を渡り、旭山のふもとの諏訪平に後詰めの陣を張って、甘粕近江守[あまかすおうみのかみ]とともに甲州勢の攻撃に備えた。
犀川を挟んで布陣する直江・甘粕の上杉軍を叩かんと出撃命令を請う高坂弾正忠に対し、信玄は「敗戦して混乱した戦況にもかかわらず、あっぱれの勇士。その上、直江が後詰めに控えているのであれば、そのままに捨てておけ」と追撃を押しとどめた。3日後、直江・甘粕近江守隊は、陣を払い、越後に引き上げた。(『甲越信戦録』より)
- 上杉三代の重臣・直江大和守実綱亡き後、 非凡な才を見込まれた樋口与六が直江の名跡を継ぐ
上杉謙信の代、多くの史料によると兼続はまだ幼少であったことから、一般的には義父の大和守実綱[やまとのかみ さねつな](のち景綱)が、川中島の戦いに参戦したとされている。
大和守実綱は、与板城(新潟県長岡市与板町)を本拠に、長尾為景、晴景、上杉謙信の三代に仕えた重臣であった。上杉家における政治面での中枢を担い、領地経営や外交など奉行職で活躍したが、天正5年(1577)70歳(伝)で没した。
実綱には子がいなかったため、上杉景勝(謙信の養子)の命で、天正9年(1581)、樋口惣右衛門(与三左ェ門、与七郎とも)兼豊の子・与六が直江の名跡を継ぎ、山城守兼続[かねつぐ]と称した。兼続は早くから景勝の近習として仕え、その非凡な才を見込まれていた。
- 兜の前立ては「愛」の一文字。 文武兼備の名宰相、上杉米沢藩の基礎を築く
景勝の腹心となった兼続は、内政・外交・軍事にわたって才腕を発揮し、のち豊臣秀吉にも重用された。景勝の会津移封に伴い、米沢城(山形県米沢市)に入城。慶長6年(1601)、徳川家康が天下を治め、景勝が米沢30万石に減封された後も、景勝を一貫して支え続けた。城下では、農業や商工業の振興、水利事業、鉱山の採掘などに注力し、出羽米沢藩の基礎を築き上げた立役者といわれる。逸話では景勝が会津120万石から米沢30万石に減封の折、兼続は3万石を与えられたが、それを諸将に配分し、残りの1万石の私領をさらに二つに分け家中に与えたと伝わる。文学・学問を好み、まさに文武兼備の名宰相であった。
元和5年(1619)江戸鱗(うろこ)屋敷で死去。享年60歳(伝)。生涯仲睦まじく寄り添った年上の妻・お船(せん)の方とともに、山形県米沢市の春日山林泉寺[かすがやまりんせんじ]に墓所がある。また、兼続は兜の前立て(兜の前面につける飾り)に、愛染明王[あいぜんみょうおう]・愛宕権現[あたごごんげん]を表す「愛」の字をつけていたといわれ、上杉神社稽照殿(けいしょうでん・山形県米沢市)にその兜が収蔵されている。
『甲越信戦録』では、上杉家を代表する名家老・兼続の英傑を讃え、謙信の四天王として川中島の戦いに登場させたとも考えられる。
甘粕近江守景持(あまかす・おうみのかみ・かげもち)
- 謙信秘蔵の侍大将の筆頭。川中島の戦いで武田啄木鳥隊の渡河を阻む
上杉謙信・景勝に仕えた重臣で、謙信秘蔵の侍大将の筆頭。上杉四天王の一人。率いる部隊の強さは、柿崎景家[かきざきかげいえ]とともに上杉軍団の双璧を成した。
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、山本勘助の啄木鳥(きつつき)戦法を見破り、千曲川を渡った上杉1万3千の将兵のうち、1千余人の兵は甘粕近江守指揮の下、戌ヶ瀬(いぬがせ)・十二ヶ瀬(じゅうにかせ)に留まり、武田別働隊に備えた。9月10日朝、甘粕隊は少数の部隊で、八幡原へと加勢に急ぐ武田別働隊(妻女山攻撃隊)1万2千の行く手を阻み、自身は半月のような大長刀を取り延ばし、武田勢を圧倒した。
戦いの終盤、上杉軍が撤退する際に直江山城守とともに殿(しんがり)をつとめ、すべての兵が犀川を渡った後、市村(いちむら)に陣をしき、後詰めに備えた。(『甲越信戦録』より)
- 武田の『甲陽軍鑑』に「近隣他国に誉めざる者なし」と雄姿を讃えられる
武田方の『甲陽軍鑑』にも、甘粕近江守の永禄4年(1561)の活躍は描かれており、大混戦の中、犀川へと1千余りの軍勢を乱すことなく率いる采配の見事さに、武田兵の多くは「謙信が指揮しているのではないか」と疑うほどであった。その様を近隣他国で誉めない者はいなかった、と高く称讃している。
甘粕氏の出自については諸説あり、清和源氏・甘粕野次広忠[あまかす(の)のじひろただ]春日山林泉寺を祖とし、桝形城(新潟県長岡市越路)を居城とする越後の豪族であったともいわれる。景持は、天正6年(1578)謙信が没した後、跡目相続争いの御館(おたて)の乱で勝利した上杉景勝に仕えた。天正10年(1582)には三条城将(新潟県三条市)となり、恩賞をめぐって景勝に背いた新発田重家[しばた・しげいえ]の居城・新発田城(新潟県新発田市大手町)攻めの前衛を担った。慶長3年(1598)、徳川家康に屈した景勝に従い、越後から会津(福島県)へ移り、慶長9年(1604)没したと伝わる。子孫は米沢(山形県)上杉藩士として続いたという。
柿崎和泉守景家(かきざき・いずみのかみ・かげいえ)
- 上杉軍の先鋒隊将をつとめた剛勇無双の猛将
柿崎氏は、鎌倉時代に白河荘(しらかわのしょう・新潟県阿賀野市周辺を支配した大見安田[おおみやすだ]氏の一族といわれる。戦国時代、長尾為景[ためかげ]に従属して戦功をたて、和泉守を称した。為景没落後は、柿崎城(別名木崎城・新潟県上越市柿崎区)を本拠地に、上杉謙信の側近として奉行職をつとめた。戦場では、他に並ぶ者のない越後随一の勇猛果敢な武人と称され、その剛将ぶりは、遠く中国地方にまで聞こえたといわれる。
- 川中島の戦いで山本勘助を討ち取った柿崎隊
永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、朝霧に包まれた八幡原の信玄本陣・典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]隊に先陣をきって突撃し、猛攻を加えた。武田軍は苦戦を強いられ、本陣を死守しようと躍り出た山本勘助を討ち取ったのは、柿崎の隊であった。(『甲越信戦録』より)
伝えられるところによると、景家は、天正2年(1574)に没し、子の晴家[はるいえ]は織田信長との内通を疑われて天正5年(1577)誅殺。天正6年(1578)の御館(おたて)の乱※以降、景勝側についた晴家の遺児・憲家[のりいえ]が柿崎家を再興したという。
柿崎家の菩提寺である楞厳寺(りょうごんじ・新潟県上越市柿崎区)には、景家と上杉謙信の幼少時代の師であった天室光育[てんしつ・こういく]の墓がある。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。