川中島の戦い・主要人物
河田豊前守長親(かわだ・ぶぜんのかみ・ながちか)
[生年不詳?~天正9年(1581)]
河田長親・禅忠
- 上洛した謙信に目をとめられ、側近となった近江国の智将
後年は魚津城・松倉城を守り、北陸方面の総指揮官となる 近江国守山(滋賀県守山市)の出身。永禄2年(1559)、上杉謙信が将軍・足利義輝に拝謁するため二度目の上洛をした際、その才能を認められて近臣として召し抱えられ、奉行職を歴任した。性格の穏やかな知勇兼備の士で、一説には謙信の寵童(ちょうどう)であったともいわれている。
永禄年間(1558~1569)には主に関東に出陣し活躍。一向一揆との戦いが激化すると北陸方面に派遣され、魚津城(富山県魚津市)、富山城(富山県富山市)などを預かり、謙信の越中経略の中核を支えた。元亀4年(1573)に武田信玄が没すると、その情報を入手し、いち早く謙信に告げたともいわれる。
長親は、上杉景信の跡目として古志(こし)長尾氏を継承し、謙信から長尾の姓と紋を与えられたが、長尾姓を名乗ることは畏れ多いとして辞退した。天正6年(1578)謙信が急死し、上杉家の相続争い「御館(おたて)の乱」※では中立の立場をとり、収束してからは上杉景勝に仕えた。その後も松倉城(富山県魚津市)主として織田軍との攻防に奮戦したが、天正9年(1581)越中にて病没したと伝えられる。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。