川中島の戦い・主要人物

武田典厩信繁(たけだ・てんきゅう・のぶしげ)

[大永5年(1525)~永禄4年(1561)]
武田信繁、左馬助
※武田二十四将の一人でもある。
武田の副大将として兄・信玄を支え続けた稀代の名将

武田信虎の次男で信玄の実弟。母は大井(おおい)夫人。幼名次郎、元服して左馬助信繁[さまのすけのぶしげ]と名のる。典厩[てんきゅう]とは左馬助の唐(中国)名。

父信虎は信玄よりも信繁を寵愛し跡目相続にと考えていたという。晴信(信玄)による信虎追放後は兄の臣下となり、副大将として兄を支え続けた。文武両道に優れ、誠実な人柄で家臣からの人望も篤く、たぐいまれなる名将と後世に讃えられた。嫡男・信豊[のぶとよ]に伝えた九十九ヵ条の教訓「信玄家法」は、江戸時代の武士教育にも影響を与えたといわれる。

川中島の激戦で兄を守り討ち死に、ゆかりの典厩寺に眠る

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、鶴翼[かくよく]の陣の左翼隊を率い、大乱戦の中で討ち果てた。『甲越信戦録』によると、信玄本陣に押し寄せる上杉勢に武田劣勢とみた信繁は、兄の身を案じて、「私が敵の攻撃を防いでいる間に、勝つ算段を考えてくださるように」と使いを送った。そして自分の黒髪と母衣[ほろ]を形見として息子・信豊[のぶとよ]に手渡すようにと家臣に託し、「われこそは信玄の弟、武田左馬之助信繁なり!われと思わん者はこの首をとれ!」と大音声をあげ、敵中に突入し奮戦、最期は鉄砲で撃たれ、宇佐神駿河守定行[うさみするがのかみさだゆき]の槍に突かれて討ち死にしてしまう。

信繁の遺体は水沢の地に埋葬され、のちに初代松代藩主・真田信之[さなだ・のぶゆき]が信繁の菩提を弔ったという典厩寺[てんきゅうじ]にその墓はある。