上水内郡信州新町牧之島にある。
牧之島城は、鎌倉時代に佐久の香坂氏(高坂)が移住し、牧場を経営して土豪となり築城した城。天文22年(1553)城主香坂弾正宗重は、村上義清に組して武田信玄に抗した。義清が越後に逃れると武田に属した。永禄4年(1561)5月、宗重は上杉方と内通しているとの嫌疑で、海津城で誅せられた。信玄はその家名の断絶するのを惜しみ、宗重の娘を海津守将春日弾正昌信に娶らせ、香坂の名跡を継がせた。そして、馬場美濃守信春(信房)を牧之島城の守将に任じた。同9年(1566)信玄の命により、信春(信房)は、従来の侍屋敷の辺りに新たに牧之島城を築いた。信春(信房)は天正3年(1575)、長篠の戦いで討死した。
岡澤先生の史跡解説
天正10年(1582)上杉景勝は川中島を領有すると、小笠原氏との境目の城として重視し、芋川親正が在城した。江戸初期の松平忠輝以後は、廃城となった。
城跡は、東西約280m・南北約330m、本郭の東側は濠、西側に空濠がある。西南北は犀川に囲まれたている。本郭に北設した二の郭は、東西約54m・南北約36m。本郭跡に御供平、御馬出、御門畑、北門などの地名がある。城域の入口で、牧田中に通じる道周辺を城下とし、3方は犀川で囲まれ、かつ、半島状根元を幅11mの濠で断ち切っている。このような地形に築かれた城は、松代の海津城、佐久の岩尾城、伊那の高遠城と同じく、山本勘助創始という甲州流築城法に基づく城である。
昭和49年(1974)牧之島城跡の発掘調査が行われ、史跡公園として整備された。城跡の一部は、道路を開くためと、崖崩れのために失われているが、主要部は残り、城域の変更もなかったので、学術的価値が高い城といえる。本郭・二の郭跡・濠・土塁・門跡などの形がよく残っている。土塁上には、兵を潜ませる「千人枡形」といわれる施設を設けている。また、甲州流の三日月濠も整備されている。
牧之島城主香坂弾正宗重は、永禄4年(1561)5月、上杉方と誼みを通じていることが発覚し、海津城で誅せられ、宗家香坂氏は断絶。信玄は名家・香坂家の断絶を惜しみ、宗重の娘を春日弾正昌信(昌宣・虎綱ともいう)に娶らせ、香坂の名跡を継がせた。信玄によって断絶した家には、信濃では仁科家がある。甲斐では板垣信方の子息弥太郎が天文19年(1550)に誅せられて家は断絶した。永禄8年(1565)に、飯富虎昌が義信事件に連座し、首謀者として誅せられこれまた家は断絶した。
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