読みは「あおやぎじょう」跡。旧善光寺道青柳宿(筑北村青柳)の東方、四阿屋山(あづまやさん)支脈の尾根上に築かれた青柳氏の本城跡。北と南の両勢力の境目にあたり、川中島の戦いのころには武田対上杉、のちには小笠原対上杉の各軍が攻防戦を行うなど、数多くの戦の舞台となった。
天文21年(1552)に小岩嶽城(こいわたけじょう/安曇野市)に籠もる小笠原長時を下した武田信玄は、翌天文22年(1553)松本平に出兵。筑摩郡に進軍し、青柳城を改修して、松本から川中島平への前衛拠点とした。小笠原氏に臣従していた城主の青柳近江守清長は、武田氏に従い、麻績(おみ)から大岡まで領して麻績氏とも称した。
同年、村上義清、高梨政頼らの求めに応じ、信濃に出兵した上杉謙信は、同年9月、更級郡八幡(千曲市)で武田軍を破り(第1次川中島の戦い)、筑摩郡に侵攻して青柳城に放火した。さらには刈屋原(かりやはら)城、麻績城を攻め落とした後、坂木にも放火して、越後軍は兵を退いた。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、青柳城は上杉景勝の勢力下となったが、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶(おがさわらさだよし)との間で攻防が繰り広げられた。その後、小笠原氏に従った青柳頼長であったが、天正15年(1587)、深志城で小笠原氏に誅殺される。文禄・慶長(1592~1615)には青柳城も廃城となったという。
現在、各所に石垣や空堀の跡が残り、城址公園として整備された主郭の展望台からは北アルプスの雄大な山並みが一望できる。麓には青柳氏の菩提寺である清長寺(せいちょうじ)があり、青柳氏館跡ともいわれる。善光寺街道の宿場の面影が残る青柳宿、切通しなどの名所がある。
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