北国往還の要衝・雨宮の渡し[あめのみやのわたし]をはさみ、古来より合戦場となった横田河原につくられた城。城跡は、現在の篠ノ井会[あい]地区の集落一帯のあたりとされる。養和元年(1181)木曽義仲が北陸攻略の拠点とし、もう一つの川中島の戦いとされる応永7年(1400)の大塔[おおとう]合戦では信濃新守護の小笠原長秀の本陣に利用されたと伝わる。 川中島の戦いでは、武田信玄の中間頭でもあった原大隅守[はらおおすみのかみ]が守り、上杉軍に備えたといわれる。近くには原大隅守の墓も建つ。
岡澤先生の史跡解説
横田城跡は南北180m・東西230mの堀を巡らしている。西半分を宮内[みやうち]、東半分を古町[ふるまち]という。宮内にある本郭部分は約55m 四方で、殿屋敷と呼ばれている。その北西隅に南北10m ・東西12m の土塁が残り、古殿稲荷が祭られている。城跡の南部に「馬出」、東部に「土居沢」の地名がある。
古代から戦国期にいたる館跡として長野市の指定史跡となっている。川中島の戦いでは、原大隅守虎胤[はらおおすみのかみとらたね]が上杉軍に備えて居城したという。
永禄4年(1561)9月10日、謙信は太刀を振りかざし信玄本陣へ単騎乗り込んで、信玄と見るや電光石火馬上から斬りつけた。信玄は太刀を抜く暇もなく、軍配団扇で受け止めた。続けて切り込む謙信の太刀を受け損じ、信玄は腕に2ヶ所の手傷を負った。この危急のとき、中間頭の原大隅守は主君の大事と持槍で、謙信とも知らず白覆面の騎馬武者を突いたが、突き損じ馬の三頭(さんず。膝関節のこと。甲越信戦録では『三途』とも記される)を打った。そのため謙信の乗馬は跳ね上がって駆け出したため、信玄は九死に一生を得たという。大隅守はこのときの軍功によって原の地に300貫の知行を与えられ、横田城を居城とした。原の地名は大隅守の姓からついたという(『栄村誌』・『原村誌』)。篠ノ井会[あい]の観音寺に原大隅守の墓と伝える墓碑がある。
史料によっては、馬上の謙信を槍で突いたのは、原隼人と伝えているものもある。原隼人佑昌胤[はらはやとのすけまさたね]は原大隅守虎吉と同族で、陣馬奉行として、川中島の戦いに出陣している。陣馬奉行は直接戦闘に参加することは少なく、総大将の本陣横に陣をとって、各部隊からの戦況報告を聞き、即座に合戦状況を総大将に報告する役目である。こうしたところから、大隅守と隼人とが混同して伝えられたのであろう。原隼人は天正3年(1575)長篠の戦いで討死した。
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