永禄4年(1561)9月10日、武田軍の戦術を見破り、妻女山を引き払って武田本陣に奇襲をかけようした上杉軍。戦いの終盤、直江山城守[なおえやましろのかみ]の別働隊は丹波島に留まり、味方の犀川[さいがわ]越えのために備えた。
9月10日朝、甲越両軍が激突。序盤は奇襲をかけた上杉軍が優勢だったが、後半、武田の妻女山攻撃隊の援軍で巻き返し、次第に劣勢となった上杉軍は犀川めざして敗走した。丹波島へ回った兵士たちは直江隊の働きで善光寺横山城へと撤退できたが、下流の市村の渡しに回った兵士の多くは戦死したという。
岡澤先生の史跡解説
丹波島宿から犀川対岸の市村への渡し。永禄4年(1561)の川中島の戦いのころは、1Kmほど下流の市村の渡しが犀川の主要な渡し場で、丹波島の渡しは市村の渡しの補助的渡しであった。
丹波島の渡しが重要視されるようになるのは、慶長期(1596~1615)以降である。慶長8年(1603)松平忠輝[まつだいらただてる]が川中島を領有し、忠輝の家臣、花井義成・[はないよしなり]義雄[よしたけ]父子が海津城代になった。花井父子は裾花川の瀬直しを行うとともに、北国街道を整備し、丹波島宿などの宿駅を定めた。これによって、丹波島の渡しが主要な渡し場となった。茶臼山に続く北側の中尾山に花井父子を祭った花井神社がある。
永禄4年(1561)9月10日、武田の本陣八幡原に奇襲攻撃をかけるために妻女山本陣を引き払った上杉の直江山城守は、小荷駄奉行に命じて犀川を渡らせ、自らは2千の兵士とともに丹波島の高地(浄生庵付近)に留まり、撤退してくる上杉兵の渡河支援のために備えた。上杉軍の奇襲をうけて、武田軍は戦いの前半で大敗した。その後、妻女山襲撃の真田弾正ら1万の援軍の到来で、上杉軍は犀川を渡って、集合地の善光寺横山をめざして北走した。丹波島の渡しへ回った兵士は直江の働きにより犀川を渡り、善光寺へ無事撤退することができた。一方、市村の渡しに回った兵士の多くは、市村の船頭や武田勢の猛追を受けて多くの戦死者を出したと伝えられている。
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