戦記「甲越信戦録」巻の二
一.山本勘助甲州に来たること
板垣信方、武田晴信公に勘助を推挙する
甲州武田の一家老、板垣駿河守信方は、はるか山本勘助の武芸を伝え聞き、いつか主君・晴信公に申し上げたいと思っていた。
天文12年(1543)の正月、武田の家法「公事始め」では一門高家の歴々、家臣が集まり、大剛勇士の沙汰を申し述べることが定例となっていた。
その席で、板垣は「これから攻める信濃の村上義清、小笠原長時、木曽義昌、諏訪頼重はいずれも強敵。ところどころに城を築き、砦を構え、大丈夫に持ち抱えることが専一と心得まする。そこで、城取縄張、軍術に通じた参州牛久保の浪人・山本勘助なるものをご当家へ召し抱えなされるよう」と、晴信公に進言をした。
勘助、晴信公に仕え、足軽大将となる
こうして勘助は晴信公の前に参上する。晴信公は勘助のこれまでの辛労をねぎらい、三百貫として与えた。さらには晴信の「晴」の一字を下され、晴幸と号し、足軽500人の足軽大将を仰せつけられた。
ここで、気性の激しい原加賀守昌俊[はらかがのかみまさとし]は、「体の不自由ある者に高禄を与える上、いまだ戦いに一度も臨んでいないにもかかわらず武芸通達は不審、ご賢慮を」と申し出た。
すると晴信公は「余が14歳の時、父信虎に憎まれ、駿河今川方に赴いた折り、勘助と出会い、主従の契約を置いたのである。余が命じて諸国を回らせ、この度呼び寄せたのだ」とこたえ、さすがの加賀守も主君の深い賢察に畏れ入ったという。
三.板垣駿河守信方死をはべること
板垣信方、上田原の合戦にて討ち死にを覚悟する
武田の一家老、板垣駿河守信方は、廉直義節の勇士。邪に組みすることのない賢士でもある。それゆえに晴信公の思し召しも厚かったが、非義ある輩は成敗を正しくするので、憎む人も多かった。晴信公は信方が高邁すぎるため案じられていた。
ある時、板垣信方の嫡子、弥治郎信里に晴信公は御詠歌『誰も見よ満つればやがて闕く(欠く)月の 十六夜空や人の世の中』と直筆した扇子を賜った。弥治郎は父を招き見せた。これを見るより信方ははらはらと涙を流し、『我、君の名代を勤めるゆえに、自然と威勢も強く、君もこれをご心配された御歌であろう。実に慎むべきことは、結果に満足して、それを生み出した努力を忘れがちになることである。そうはいっても、この後とも不忠不義をすべきではない。この後の戦いには華々しく討死しよう。その方は父がこの思いを継いで、忠節を尽くすように』と教訓し、世の無常を味気なく思っていた。このことばに違わず、信方は上田原の合戦で深手を負いながらも、群がる村上勢の中に討って出て、討ち死した。
四.額岩寺駿河守光氏讒言にあうこと
勘助、義清の忠臣・額岩寺光氏を謀る
村上義清の家臣・額岩寺光氏は、信州に並ぶ者がない武勇の者で、砥石城の戦いでは、武田の甘利備前守、横田備中守を討ち取り、勇猛・智謀・人に優れ、忠義一途の武士であった。
山本勘助はこの額岩寺がいるうちは、村上義清を討つことは難しいと考えていた。そこで信州勢の相木市兵衛尉政朝に相談したところ、義清方の寵臣に密使を送り、調略することに成功した。武田方についた義清方家臣は、義清に「額岩寺が君に背き、寝返るかもしれないので油断なきように」と告げ口をした。義清はその家臣の言葉をまるごと信じこみ、以後、額岩寺を遠ざけてしまった。
板垣信方、上田原に討ち死にす
天文16年(1547)、武田軍は佐久郡志賀城を攻めた。城主笠原新三郎雅直は、村上義清に援軍を頼むが、額岩寺がいない村上方の軍評は決まらず、その間に志賀城は落城。笠原新三郎は討ち死にした。
武田軍は勝ちに乗じてますます勢いを上げている。無念やみがたい義清は、兵7000を率いて小県郡上田原に陣を取り、武田軍を迎え撃った。甲州の先陣は板垣信方。500人の兵を率いて自ら槍を握って敵陣に攻め入り、義清の先陣を総崩れさせるが、二陣の鉄砲隊により信方は肩を打ち抜かれ、引き返して休むところを急襲。ついには上条織部に首を討ち取られてしまう。
額岩寺光氏の奮戦
板垣信方の討ち死にを知った飯富、小山田、馬場の面々は板垣が弔い合戦と猛攻をしかけた。引き退く村上方との間に、さっと駒をとどめた武者がいた。
「我こそ、独武者と呼ばれた額岩寺光氏なり、しばらく人の讒言[ざんげん]によって甲州方と疑われていたが、いま汚名をそそがんためにこの陣頭に推参せり」と叫び、武田の軍勢に飛び込んで、一気に敵28騎を切って落とした。これに鼓舞された村上方の勇士も敵陣に駆け入り、さんざんに戦い、敵の向こう備えも破った。村上義清は額岩寺の変わらぬ忠誠に心打たれ、自らの誤りを心底悔やんだ。
義清、晴信公の一騎打ち
武田の備えが崩れたことを幸いに、義清は直戦で勝敗を決しようと馬を蹴って駆けだした。敵陣を踏み破り、武田晴信目がけ、電光稲妻一太刀と切りつける。晴信公は左の肩先鎧の袖を切って落とされ、すかさず義清は二の太刀を振り上げた。しかしそのとき、甲州兵の久保田助之丞が槍で義清の馬を突き、義清は落馬し気絶してしまう。してやったりと助之丞が首を取ろうとするところ、すかさず駆けつけた額岩寺が、助之丞を金剛力で打ちつけ、主君の危機を救った。
介抱されながら義清は額岩寺の忠義に涙を流し、晴信を討ちもらしたことにほぞをかんだ。この上田原の戦は、村上方の大敗に終わり、義清はしかたなく坂木・葛尾城へと駒を帰した。
五.葛尾落城・義清落足のこと
義清、忠臣額岩寺の説得により越後に逃れる
葛尾城の留守を守りつつ、密かに山本勘助と内通していた義清方の家臣は、城に火をかけた。勘助は500の兵で攻め入り、要害堅固の葛尾城は自落する。村上義清は城の煙を遥かに眺め、勝ち誇る武田軍の中に返し、再び討って出ようとした。
しかし、額岩寺光氏は、「弓矢の道に義理深い謙信公ならばご加担あるは疑いなし。己は武田に一時降参して、主君が謙信公とご出馬の折りに、武田の後陣より切って出ましょう」と、越後の上杉謙信公を頼り、再起を図るよう説得する。そして、甥の屋代源吾を義清の身代わりに立てた。
源吾は「我こそは村上左衛門尉義清なり!」と叫んで敵の中に飛び込み、四、五騎を切り伏せ、ついには討ち死にする。その間に義清が室賀山を越えて無事逃れたことを知り、額岩寺は武田に降った。
額岩寺光氏、晴信公に降る
武田に降り、いつかは後陣から攻めてやろうとする額岩寺であったが、晴信公にその魂胆を見抜かれてしまう。「千里の野辺に虎を放し飼いで油断できぬが、まれにみる勇士。詩に、人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なりとある。情を加えるのが当然であろう」と、額岩寺を先陣に遣うことにした。額岩寺は自分の心中を見抜いた晴信公の眼力の凄まじさには感嘆するのみであった。
そして晴信公は主君の身代わりとなって討ち死にした屋代源吾を不憫と思い、懇ろ(ねもころ/ねんごろ)に葬るよう家臣に命じた。