川中島の戦い・主要人物

武田刑部少輔信廉(たけだ・ぎょうぶのしょうゆう・のぶかど)

[1525、1528、1532年等諸説あり~天正10年(1582)]
武田信廉・逍遙軒信綱
※武田二十四将の一人でもある。
兄・信玄を支え続けた武田親族衆の筆頭。 戦国期屈指の武人画家としても知られる

武田信虎の三男で、信玄信繁の同母弟。幼名孫六、のち逍遙軒信綱(しゅようけんのぶつな)と号した。親族衆の筆頭として信玄本陣を固め、情報戦略の面でも力を発揮し、兄・信玄を補佐した。永禄4年(1561)の川中島の戦い、天正3年(1575)長篠の合戦にも参陣し、勝頼が躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]に入ると伊那高遠城の守将をつとめた。天正10年(1582年)織田軍の甲斐攻めで伊那を追われて甲斐に退却するが、捕らえられ古府中で処刑された。

信廉は戦国期屈指の武人画家としても有名で、父・信虎と母・大井夫人を描いた画像は、現在国の重要文化財となっている。

信玄の影武者ともいわれる人物

風貌が酷似していたことから、信玄の影武者をつとめた人物といわれている。第4次川中島の戦いでも信玄の影武者を演じ、また、信玄が伊那駒場で没したときも、兄になりすまして甲府に軍を戻すことに成功させたというエピソードがある。

『甲越信戦録』によると、第4次川中島の戦いで上杉謙信が信玄の本陣に斬り込む際、間者を放ち、信玄の居所を探らせた。信玄本陣に見事入り込んだ間者たちは、大将然とした法師姿の武者が二人並んでいるのを見て、どちらが信玄か見極められなかった。その時、太郎義信(信玄の息子)の苦戦の報を受けた一方の武者が「我に構わず太郎を救え」と叫んだ。間者らはその声を発した武者が信玄だと見届け旗を振り、謙信はその合図の旗をめざして一騎討ちに挑んだ。この時のもう一人の法師姿の武者が、実は逍遙軒信綱(信廉)であったという。