川中島の戦い・主要人物

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小山田出羽守信有(おやまだ・でわのかみ・のぶあり)

[永正16年(1519)?-天文21年(1552)]
小山田信有、桃隠、左兵衛尉、藤丸
武田家との同盟者、郡内・小山田家の当主。信濃侵攻の尖兵として多くの武功をあげる

信虎信玄の2代に仕えた武田の重臣。甲斐の郡内[ぐんない]地方(山梨県東部)を領有していた小山田家16代当主にあたる。父の越中守信有[えっちゅうのかみのぶあり]は信虎に降り、以後小山田家は武田氏の同盟者・一門衆となる。

信有は知勇に優れ、参謀としても力を発揮。郡内勢が得意とする投石隊を指揮していたといわれる。天文11年(1542)の諏訪攻略にはじまり、伊那、佐久へと展開する晴信の信濃侵攻には尖兵となって活躍した。

武田軍の残虐劇として伝わる佐久の志賀城攻めでも信有は戦功を立て、志賀城主・笠原氏の夫人を引き取り側室とした。天文17年(1548)上田原の戦いでは、信玄の側近として奮戦し、その後、佐久の牙城・田口城[たぐちじょう]を攻略。上田原の武田軍敗戦によって力を盛り返した佐久勢の鎮圧に成功する。天文19年(1550)、堅塁を誇る村上義清の砥石城[といしじょう]合戦で援護の鉄砲隊を指揮した信有だったが、苦戦を強いられ、重傷を負う。その傷も癒えぬまま、2年後、天文21年(1552)信有は他界。葬儀には1万人が参列し、郡内一番の弔いとなったと伝えられる。その後、小山田家は長男の信茂[のぶしげ]が跡を継ぐ。