読みは「さかさえんじゅ」。永禄4年(1561)の川中島合戦で、山本勘助の進言によって「啄木鳥(きつつき)の戦法」をとることにした武田信玄は、八幡原のこの場所に土塁を積み重ね、矢来(やらい)を組み、盾をめぐらして上杉軍挟撃の本陣をおいた。その際、土塁の土留めとして自生していた槐(えんじゅ)の木を逆さにして打ち込んだものが、やがて芽を出し大樹になったと伝えられる。木の周囲に残る低い土塁は、信玄本陣を示す桝形陣形跡といわれる。
ちなみに、槐は仏教の伝来とともに日本に入ったといわれ、中国では昔から“尊貴の木”とされていた。周の時代、宮廷の庭には3本の槐が植樹され、朝廷の最高位にある三公(大臣)はそれに向かって座したことから、最高の官位を「槐位(かいい)」と称するようになったという。学問と権威を象徴し、寺社や公園に多く植栽されている木である。
場所は川中島古戦場史跡公園(川中島古戦場)内。
岡澤先生の史跡解説
八幡社(はちまんしゃ)拝殿と三太刀七太刀のあいだにある槐の巨木が「逆槐」である。この逆槐は、信玄が八幡原に土塁を築いて本陣を構えたとき、逆茂木(さかもぎ)※に用いた槐の杭が根づいたと伝えている。八幡原七不思議伝承※の一つである。槐の木は、八幡原周辺でも手安く得られる杭材であった。今日でも、休耕田や荒廃農地には、槐の幼木をよくみかける。
八幡社地首塚の北側に「梨本宮(なしもとのみや)殿下御手植之松」の石碑がある。大正6年(1917)、殿下がこの地に来駕されたおりの御手植えの松は枯れて、その痕跡もないが、石碑の後ろに槐の木がまっすぐに天に向かって伸びている。この槐の木は、御手植えの松の防御柵に用いた杭という。当時の青年団員らが、「杭を逆さに打ち込んで、果たして逆さ槐になるかどうか、試しに逆槐の枝を御手植えの松の保護柵に用いた杭」と、団員であった古老は語ってくれた。
土塁跡は、東西34m ・南北45m 、北側は八幡社拝殿の建物の下になって痕跡をとどめていない。
※逆茂木(さかもぎ)……防御柵。乱杭(らんぐい)、鹿砦(ろくさい)、鹿角砦(しかづのとりで)ともいう。
※八幡原七不思議伝承……逆槐・逆麦(さかさむぎ)・胴合・首塚・松籟(しょうらい)・古井戸・藁人形の伝承がある。
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