読みは「さいじょさん」「さいじょざん」。永禄4年(1561)8月、上杉謙信が越後から1万3,000人の軍を率いて陣営を設けたといわれる小高い山。
展望はよく、東に松代の町、西北に千曲川の流れと川中島平一帯を見渡せ、武田方の海津城の動静をうかがうには絶好の場所だった。現在山腹には、戊辰戦争の戦死者を祭る招魂社(しょうこんしゃ)が建つ。展望台からは、遠く北アルプス、戸隠、飯綱などの山々が一望でき、信州のサンセットポイント100選のひとつにも数えられている。
妻女山の地名のいわれは、古くからさまざまな説が唱えられているが、昔から川中島地方の人々にとって、「上杉本陣の妻女山」といえば、現在招魂社が建つ場所と伝えられてきた。
一方、地元(長野市松代町岩野・清野地区)では、招魂社が建つあたりを「赤坂山」と呼んでおり、本来の妻女山山頂は、そこからさらに南西に登った斎場山古墳のあたり(私有地)という。山の中央の平地は陣場平(じんばだいら)といい、陣場平の西北隅は謙信が本陣を設けた場所として「床几塚(しょうぎづか)」とも呼ばれる。その南西は「千人窪(せんにんくぼ)」といって伏兵千人を潜ませたとも伝えられている。(「松代附近名勝図絵」松代青年会編大正9年(1920)刊より)
また山の西側には謙信が槍の尻で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉(やりじりのいずみ)」がある。
岡澤先生の史跡解説
明治13年(1880)岩野村から県知事に提出した取調書に、「斎場山は本村南より東に連なり、平地面との差は100mほど。祭祀壇49個あって、みな円形である。この地は国造りのはじめより埴科郡領の斎場祭壇を設けて、郡中一般の祭祀をした所である。上杉陣営跡は、南斎場山に属す」とある。妻女山は、古代より近代初めにかけて「斎場山」が正式表記で、『甲陽軍鑑』や戦国期の古文書に見られる「西条」山は「斎場」山の借音表記である。
第4次川中島の戦いの際、妻女山の謙信が、夜陰に紛れて千曲川を渡って、武田軍をなぜ奇襲できたか、それを信玄が、なぜ察知できなかったかを知る記述が『甲陽軍鑑』にある。この書に「武田軍は合戦の場合でも一食一炊飯。謙信は午後9時ころに西条山を出発して、雨宮渡しを越え、対岸に移った。1万3千の大兵でも物音一つ聞こえなかった。それは、越後勢は合戦のときは、一人に三食分の朝食を用意させておく軍律となっているためである。夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焚く色が見えなかった」と記している。
稲穂が黄金色に垂れはじめた頸城(くびき)の里を上杉の将兵は、8月14日に川中島へと出陣した。新暦10月2日である。9月9日は新暦10月27日である。信濃の冬は早い。遠望する山々は冠雪。川中島の里にも雪が舞いはじめた。秋の取り入れは、冬支度はと、将兵の妻女を案ずる思いは日毎に募っていった。江戸時代に入って、次第に川中島の戦いが物語化、ロマン化されて、将兵の妻女を思う心情を表記に託して「妻女山」としたのではなかろうか・・・。
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