第4次川中島の戦い川中島八幡原の戦い

進軍開始

8/14

  • 上杉謙信(合戦当時の名は上杉政虎。以降便宜上謙信と記す)、1万3千の兵を率いて、信濃に向け春日山城を発つ。
  • 謙信、兵糧隊2千を善光寺横山城に駐留させる。

8/16

  • 上杉本体は、可候峠(そろべくとうげ)を通り、妻女山へ向かう。
  • 謙信、1万1千の兵を率いて妻女山に布陣。
  • 高坂氏、ノロシ山から「上杉軍出兵」を知らせるノロシをあげる。(甲府まで約150kmを2時間ほどで伝達したという)。
  • 武田信玄、甲府にて上杉軍の妻女山布陣の報を受ける。

8/18

  • 信玄、1万の兵と共に甲府から出陣。味方を加えながら、24日には2万余の兵を率いて川中島方面に至る。

布陣

8/24

  • 信玄、茶臼山に布陣。上杉軍の退路を断ち、様子を見る。

8/28

  • これにより6日間、両軍が対峙
  • 信玄は上杉方に戦う気があることを確かめると、山本勘助に上杉方の戦意をくじく戦術を練らせた。
    勘助は、周辺の村々に紙旗を作らせ、夜は山々に数十か所のかがり火を焚かせ、大軍を装った。
  • 上杉の家臣は「このままでは甲州軍に春日山城に攻め込まれてしまう」と動揺するが、謙信はうろたえることなく吟詠。
    「信玄が越後に攻めるなら、こちらは甲州を攻めるまで」という大将の剛気に越後兵たちは士気を取り戻す。

進軍

8/29

  • 信玄、「これ以上の対陣は無益」として本陣を引き払い、全軍を引き連れ、海津城に入る。
  • 武田の軍勢は一気に合流して海津城へ入場せず、まず信玄が入城、その後、海津城から遠い部隊より順に入城したと思われる。
    (集団になって兵をひくと、上杉軍に隙を突かれるおそれがあるため。)
  • 謙信はこの動きを眼下に見ながら動かず。
  • これよりさらに10日間、両軍が対峙。

9/8

  • 武田軍、軍議を開く
    飯富虎昌、馬場信春は「このまま戦わないのは武士の名折れ」と、上杉軍との合戦開始を進言。
    信玄は、馬場信春と山本勘助に評議させ、啄木鳥「きつつき」の戦法を提案。
    勘助の采配により、部隊を編成する。

    ▼妻女山夜襲の啄木鳥隊十将
    ●高坂弾正忠●飯富虎昌●馬場信房●小山田昌行●甘利昌忠●真田一徳斎(幸隆)●相木市兵衛●小山田弥三郎●芦田下野守●小幡尾張守

激戦前夜

9/9 午後8時ごろ

  • 武田軍、兵糧(食事)の用意をする。(海津城より数条の炊煙があがる)
  • 謙信、炊煙から武田軍の動きを察知。

9/9 午後11時ごろ

  • 謙信、100人余りの勇士を残して妻女山を発つ。武田軍の夜襲隊を欺くため、妻女山にかがり火を35か所に焚き、紙旗を立てておいた。
  • 奇襲に備え、武田軍は順次食事をとっていた。

9/10 午前1時ごろ

  • 武田別働隊(啄木鳥隊)1万2千名余が、妻女山の上杉軍を挟撃するべく、海津城を発つ。

9/10 午前3時ごろ

  • 甘粕隊1千名が東福寺に留まり、妻女山攻撃隊に備える。
  • 直江隊1千500名と小荷駄隊500名は横山城方面へ進軍。
    ※小荷駄隊(こにだたい)=食料、弾薬や馬糧などを運ぶための専門部隊のこと。

9/10 午前4時ごろ

  • 信玄、8千名の兵と海津城を出発。
  • 啄木鳥隊主力隊は尾根伝いに進軍。
  • 上杉軍本隊は八幡原近くへ進軍。着々と戦いに備えていた。

9/10 午前5時ごろ

  • 未明、川中島一帯に霧が発生。
  • 上杉軍、陣形を整えながら待機。
  • 直江隊1千500名丹波島に留まる。
  • 武田本隊、順次川中島八幡原「はちまんぱら」に到着、本陣を張る。
  • 小荷駄隊500名善光寺横山城入城。

9/10 午前6時ごろ

  • 上杉軍、車懸りの戦法で武田本陣に近づく。
  • 信玄、霧の中に人馬の音がするのを不審に思い、濃霧の中 浦野民部左衛門を偵察に出す。武田軍本隊、鶴翼の陣を展開しはじめる。敵兵がいることに気づき、武田軍は浮き足立つ。

9/10 午前7時ごろ

  • 啄木鳥隊、妻女山に奇襲をかけるが、敵陣に謙信はおらず。

9/10 午前7時半ごろ

  • 濃い霧で陣形が整わない武田軍に上杉軍が奇襲攻撃を始める。
  • 武田軍本陣、体制を整えようとするが、抑えきれず乱れる。

9/10 午前8時直前

  • 啄木鳥隊は慌てて岩野へ下り、十二ヶ瀬から千曲川を渡ろうとするが、上杉軍・甘粕隊に阻まれて苦戦。
  • 高坂隊は海津城への奇襲を危惧し、引き返す。

激突

9/10 午前8時ごろ

  • 八幡原一帯で甲越両軍が激突
  • 霧が晴れ、上杉軍は車懸りの戦法で一気に武田軍目指して襲いかかる。
  • 甘粕隊に行く手を阻まれた啄木鳥隊は、戌ヶ瀬、猫ヶ瀬へも移動し始める。

9/10 午前8時半ごろ

  • 啄木鳥隊、戌ヶ瀬、猫ヶ瀬から千曲川を渡り、本陣に向かう。
  • 武田信繁討ち死に
  • 山本勘助討ち死に
  • 諸角豊後守討ち死に
  • 啄木鳥隊が上杉軍の背後を突きはじめる。

9/10 午前9時半ごろ

  • 啄木鳥隊が八幡原付近へ続々と到着。
  • 上杉謙信、武田信玄の本営に斬り込み、信玄と一騎討ちを果たす。
  • 高坂隊、2千の兵を連れ、八幡原へと加勢に向かう。

9/10 午前10時~11時

  • 信玄、八幡原の本陣を川向こうの高畑に移す。高坂隊は本陣に到着、戦況を確認。
  • 陣場河原付近
    新手の大軍に追撃された上杉軍は総崩れとなり、徐々に犀川方面へ退却。
    陣場河原(稲里中氷鉋)で行き場を失い、武田軍に多くの兵が討たれる。
    上杉軍の甘粕隊を追って、武田軍の高坂隊は甘利(昌忠)・飯富と共に丹波島へ。地理に詳しい利を活かして甘粕隊よりも先に丹波島へ到着し、甘粕を迎え撃つ。

9/10 午後12時

  • 甘粕隊、なんとか丹波島を渡り、市村に着陣。
  • 直江隊、旭山の麓に布陣。甘粕隊と合わせて5千が後詰めとして武田軍に備えた。
  • 謙信は乱戦の中、千曲川を渡り、牧島の川辺に着く。

9/10 午後4時近く

  • 武田軍、陣場河原で勝ちどきを上げ、海津城に引き揚げる。
  • 謙信は従者とともに川田(若穂)から山道を通り、北走。山田越えし、小菅権現の導きで間山より木島に出て、安田の渡し場(綱切の渡し)より富倉峠を越え、越後に戻ったといわれる。
  • 直江隊、甘粕隊はこのあと3日間その地にとどまり、越後へ引き上げていった。
  • 永禄4年(1561)第4次川中島の戦いの犠牲者は、「大日本戦史」によると武田軍、死者4千600余名、負傷者1万3千名、上杉軍、死者3千400余名、負傷者6千余名。
    甲越合わせて3万2千名の約83%にあたる2万7千余名が死傷したといわれ、日本の戦国史上、最大の激戦の一つに数えられるようになった。
    この戦い以降、北信濃の武将のほとんどが武田方につき、川中島・善光寺平は武田の実質的支配下となった。