第3次川中島の戦い上野原の戦い攻める謙信、守りの信玄。 正面衝突を避けながら武田軍は勢力をじわじわと浸透させる
第3次川中島の戦い(壱)
盟約を破り、武田軍、北信濃へ進出
真田幸隆が、川中島の要衝となる尼厳城を攻略
- 武田信玄は、弘治元年(1555)、上杉謙信と「川中島から撤退する」という盟約を交わしたが、北信濃進出の手をいっこうにゆるめることはしなかった。伊那を制圧し、木曽の木曽義昌も降り、信濃は川中島以北を除いてほぼ武田の支配下となっていた。弘治2年(1556)3月、武田車は葛山城を拠点とする上杉方の落合一族(葛山衆)を分裂させるため、静松寺の僧侶と通じてー族を裏切らせることに成功する。
- また、8月8日、地蔵峠から川中島地方へ通じる要衝にあった東条氏の尼厳城を真田幸隆が攻略。着々と善光寺平侵攻の準備を進めていった。
武田軍、策謀と武力で落合一族の葛山城を攻略、さらに戸隠、下高井へと勢力を拡大
- ①弘治3年(1557)1月、深い雪で上杉軍が越後から進軍できないのをみはからい、武田軍は馬場美濃守信房を大将として、上杉方の葛山城[かつらやまじょう]を攻める。
- 1月下旬、城主·落合備中守(二郎左右衛門尉)、小田切駿河守ら葛山衆は籠城。徹底抗戦するが、2月に城は落ち、武田軍は善光寺平の中心域を手中に収める。
②さらに武田軍は戸隠にも進出し、飯縄権現の仁科千日[にしなせんにち]も武田方につく。戸隠三院の衆徒らは越後に逃れた。
- ③このときには長尾(上杉)方の島津月下斎[しまづ·げっかさい·忠直]は、長沼城[ながぬまじょう]から大倉城[おおくらじょう]へ退却していった。
怒った謙信、北信濃の所領を奪回しながら善光寺に着陣
旭山城を再興し、信玄との直接対決を望む
- ④2月に高梨一族の山田左京亮[やまだ·さきょうのすけ]と木島出雲守[きじま·いずものかみ]を調略し、北へ北へと勢力を拡大する武田軍に対して、⑤飯山城の高梨政頼は、縁戚関係にある上杉謙信を頼った。信玄の行状に立腹し、更級郡八幡宮に戦勝祈願をしていた謙信は、3月24日に春日山城から信濃へ出陣する。
第3次川中島の戦い(弐)
- ①信濃に入ると②武田方に落ちた高井郡山田要害(高山村)、福島[ふくじま·須坂市福島]城を奪い返し、③4月21日、善光寺横山城に着陣。4月25月には敵陣数カ所と麓の集落に放火し、④旭山城を再興して本営を移す。
⑤謙信の出兵に応じて島津月下斎[しまづ·げっかさい]は戸屋城[とやじょう·長野市七二会]に入り、小川·鬼無里方面に圧力を加えた。
- ⑥上杉軍は、5月12日、築城中の香坂城(海津城の前身の説あり。図ではその位置に表記)を攻め、⑦13日には埴科郡·小県郡境坂木の岩鼻[いわはな]にまで進軍。謙信は信玄と対決しようとするが、武田信玄は出陣せず、そのまま謙信は飯山城へと兵を返す。
第3次川中島の戦い(参)
信玄、山本勘助を奥信濃の市河氏に遣わす
上野原で交戦後、越後勢は兵をひき、善光寺平の大半は武田方の勢力下となる
- ①6月、飯山城に後退した上杉謙信は、高井郡野沢の市河藤若[いちかわ·とうじゃく/とうわか]を攻め、市河氏は武田信玄に支援を要請。②これに応えて深志城(現·松本城)の武田信玄は、山本勘助(菅助)[やまもと·かんすけ]に書状を持たせて遣わしたが、上杉軍はその後、撤退する。
- ③7月5日、武田軍は上杉方の安曇郡小谷城[おたりじょう]を攻略し、糸魚川方面からの越後軍の侵入に備えた。
- ④8月下旬、髻山城[もとどりやまじょう]近くの水内郡上野原で、武田軍と上杉軍の交戦があったが、まもなく上杉軍は兵をひいた。【上野原(うわのはら)の戦い】
- この後、武田信玄は、柏鉢城[かしわばちじょう](上水内郡中条)、東条城(長野市松代)、大岡城(長野市大岡)、そして尼厳城などの在番衆※を定め、北信濃の勢力を着実に固めていった。
※在番衆…この場合、城や領地を守る役割の武将。